28/01/2022

2022.1.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編62編6節
私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。
私の希望は神から。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書11章15節
耳のある者は聞きなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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今日の旧新約聖書を通して黙想してみたいのは、ずばり「黙想」とはなにか、ということについてです。
 
今日の旧約聖書には「沈黙せよ」という言葉が込められているわけですが、その沈黙は「神に向かって」ただなされるものであると描かれています。ここに大きなポイントがあると、私はとらえました。
 
沈黙とは、ただ黙ることではありません。声を発さなければ、それで良いということではありません。なんのために、私たちは沈黙するのでしょうか。このことを考えるうえで「神に向かって」というひと言が、とても重要なポイントです。
 
私たちは自己主張の世の中で生きています。自分の思いを表現する、自分の考えを発言するなどの言動そのものは、決して悪いことではありませんし、それがなければ、世の中は回っていかないでしょう。
 
ただし、私たちは自己を主張する前にすることがある。これが「神に向かって沈黙する」ことの意義に相通じます。神に向かって沈黙するとは、神の発するささやきのような声に、私たちがいかに耳と心を傾けることができるか。そのことが問われているのだと思います。
 
沈黙しなければ、私たちは神の御声というものすら、聴くことができないし、それに従うこともできない。聞こえていても、聴くことができない。神の方角にしっかりと私たちのアンテナを向けて、ただ沈黙して神の御心がなんであるかを、聖書の言葉・聖霊の助けをもって聴き取っていこうとする願いこそ、今日の旧約聖書の言葉が語るメッセージです。
 
のちにイエスが、耳のある者は聞きなさいと、群衆に告げられました。私たちは不安があればあるほど、口数が多くなるかもしれません。この聖書の言葉が語られたときの状況が、まさにそうでした。ここでは詳しくは触れませんが、投獄されたひとりの男・洗礼者ヨハネによる、将来への不安がありました。
 
その不安に、イエスは「耳のある者は聞きなさい」と告げられました。「ただ神に向かって沈黙せよ」と、神の御心に聴いて、御言葉を握りしめて生きるならば、それは私たちにとって希望そのものなのだと。
 
ただ静まって、御言葉によって神の御声に聴くこと。喧噪のなかにあっても、そのようなひとときが一分、一秒でも確保できることを、私の希望の源としたい。これが、私の黙想でした。
 
どうか、今日の一日も沈黙することから始まる豊かさが、神とともにありますように。

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