30/06/2024

2024.6.30(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書11章19節
私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授ける。彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。先週の日々で起きた数々のことを振り返りながら、良かったことについては引き続き、悪いと感じたことは引きずり続けることなく、神が与えてくださる道を闊歩して歩みたいと心から願わされます。闊歩できるのは神が常にともなってくださるのだと思うからこそです。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに私の心のうちにそれを思わせるものでした。旧約聖書・エゼキエル書に記された「石の心・肉の心」は、私たちのうちに神が与えてくださる「霊」によって、私たちの心の状態をも変えられていくことを如実に知らせるものであると私は受け止めました。私たちは神がいてもそれに頼ることなく、また気づけなくさせてしまうような環境に置かれると、どんどん疲れ果ててしまうものです。物事をマイナスにとらえてしまい、どんどん消極的になり恐怖が自分自身を取り囲んで苛ませる。そんな時に「石の心」にさせられているのだと、私は自分のことを振り返っても感じさせられるのです。
 
神の霊とは明らかに聖霊のことを指します。聖霊は物質のように目に見えるものではありませんが、私たちに生きる力を与えるものであることに間違いありません。内側から起きるこの力を神が与えてくださることで、私たちはあらゆる物事に対して消極的にならず、卑屈になることもなく、あくまでしなやかな肉体のように柔軟な物事のとらえ方をもって与えられた道を歩めるように、神が助けてくださる。ここに聖霊が私たちに与える「希望と真実」があるのだと私は受け止め続けたいですし、実際にそんな肉の心を感じたときの喜びは、計り知れないものがあるのです。
 
不安や恐怖が募ると、人は臆病になります。臆病になればおのずと攻撃的になるというのは、心理学の世界でも実証されていることです。一見すると臆病と攻撃性というのは真逆のような感覚があるのですが、私自身、実際に自分の言動や感情を振り返れば、なるほどその通りだと思うのです。特に人間関係でそのようなことが起こる時に、私たちは臆病に取り込まれて前に進むことができなくなる。これこそ「神の霊の不在状態」なのかもしれません。知らず知らずのうちに、神の霊が働かれる力に希望を託そうとしない、拒絶してしまう自分自身があるのです。
 
今日の新約聖書であるテモテへの手紙の一節は、神の霊は臆病なんかでなく、神の持たれる力や愛、思慮深というものを提供します。つまり、臆病になるがゆえに自己保身に走り、牙を向けて相手に吠え掛かるようなことではなく、神の愛や力、その深い配慮ゆえに人と人とのあいだに訪れるのは平安なのだと伝えています。だから、聖霊の存在がいかに私たちを活かすのに、無くてはならないものなのかを、改めて実感させられるのです。
 
今日、新たな一週間の始まりとして、世界じゅうで持たれる主の日の祝祭、礼拝や集会の一切に、神がご自身の霊を送られることによって、私たちのあいだに平和が豊かにありますように。心よりお祈りいたします。

29/06/2024

2024.6.29(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉12章1節
若き日に、あなたの造り主を心に刻め。
災いの日々がやって来て
「私には喜びがない」と言うよわいに
近づかないうちに。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章18~19節
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。だから、もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された言葉は、とても慰められるものであるとともに、私が他者に対してどのような態度を抱くべきかを思わせられるものでした。そのことを書きつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書であるコヘレトの言葉の一片は、とても有名なものであると思います。「若い日にあなたの造り主を覚えよ」というものですが、新しい聖書では「覚える」が「心に刻む」という表現になっていることに、より具体的なイメージを抱くことができます。
 
何を心に刻むのでしょうか。コヘレトの言葉は、年を重ねてからいろいろなことで後悔しないようにという思いで、若い日に神がともにおられることの幸いというものを味わえと語っています。私はここから、また今日の新約聖書の言葉と相まって、「若いときにこそ、たくさん失敗をして生きろ」ということなのかなと受け止めました。
 
今日の新約聖書の言葉は、あの放蕩息子が自分の放蕩三昧の結果、ある意味人生の「しくじり」を自覚したときに、父のもとに帰ろうと決意するシーンです。自分がいかにどうしようもない人間か。それは自分を見つめた結果として気づかされたことでした。そのような自分自身に対する謙虚な姿勢が、父親の前で奴隷として生きても良いという思いへと導かれたのでしょう。これこそ、父を「心に刻む」生き方であり、コヘレトの言葉に記された「造り主を心に刻む」ことに相通じていくのだと私は思います。
 
そこで、私は思うのです。私自身がそうだからなのかもしれませんが、若い時に経験した数々の失敗を通して、神について考え、神をより深く感じ、神を心に刻んで生きることが、いかに幸いなことなのだろうかと。だからこそ、放蕩息子を両手を広げて迎え入れた父のように、神は私たちの失敗によって父が私たちのご自分が敷いてくださった道を歩むことができるようにしてくださる姿に、自分自身もかくあれかしと思ったのです。

若さゆえに失敗することがある。鼻っ柱強く、鼻息荒く、周囲の放つ苦々しさにも傍若無人に振舞った結果失敗を味わうこともあるわけですが、そんな時に周囲にいる私も含めてどのような態度を取ることが大切なのかを考えることがあります。そんな時に、失敗をあげつらっては非難を重ね、その人が失敗から二度と立ち上がれないようにすることが道なのか、それとも、本人が失敗を通して神を心に刻めるように見守り続けるのか、私は後者を取ることこそ、今日の聖書の言葉に自分を合わせた生き方なのだろうと、改めて思わされたのです。
 
そんな思いを胸に刻みつつ、今日の一日を歩むことができるように。そして、神の示される平和が私たちの心に感じとることのできるような一日でありますように。お祈りします。

28/06/2024

2024.6.28(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編28編7節
主はわが力、わが盾。
私の心は主に信頼し
私は助けられ、心は喜び躍る。
私は歌を献げて主に感謝する。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章15節
だから、イエスを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「賛美」であると私は受け止めました。この言葉をキーワードに、黙想したいと思います。
 
なぜ賛美するのか、賛美することにはどういう意味があるのか、そのようなことをあれこれ論ずる以前に、それは神が私たちとともにおられることを大切にしようとする、私たちの心からあふれ出る表現方法であることは、すでに賛美をした経験があるならば、言わずもがなでしょう。私たちは歌うにしても聴くにしても観るにしても、賛美を通して神を知るという営みを大切にしているのです。
 
賛美を通して、私たちは神の力、神からの深い慰め、豊かな信頼や大いなる助けを知り、それを経験します。それが神の私たちに対する喜びを受け取り、私たちもまたその喜びを神にお返しすることができる。そのお返しこそ、私たちが神に感謝とともにささげる賛美なのでしょう。今日の旧約聖書の詩編で、ダビデ王がそのように神に向かって賛美をささげていることを私たちは理解し、私たちもまたダビデのように、賛美を神にささげることができるのです。
 
ただ、賛美はそのような喜びを私たちに提供する一方で、賛美に示された言葉や音楽性というものをめぐって、しばしば「争いの種」になることもまた事実です。神からの助けや力を感じるための賛美なのに、それが争いのもとなってしまうのであれば、本当に残念なことです。そして、その争いはしばしば、それを受け取り、表現する私たちの側の「感情」にあると私は考えています。賛美を愛しているからこそ、そこにかける情熱も強くなればこだわりも強くなるのだと私は思います。
 
私たちが「歌い慣れていない」賛美のジャンルや賛美歌集に対するアレルギーのような反応に時々遭遇することがあります。そして、そのアレルギーのような違和感に対して、時にはストレートに違和感を表現することがあれば、理論武装してその思いを表すこともあるでしょう。
 
しかし、私たちはそういう時こそ自分のうちに起こる違和感というものが「どこから来るのか」ということを、自己省察する営みというものが求められるのだと思います。そのような自己吟味を通して、賛美の指し示す本質というものにしっかりと眼を向けることで、神に賛美のいけにえをささげるという本来の目的を是非大切にしたいと私は思うのです。
 
新しい賛美歌を礼拝で導入しようとしました。それにあたって丁寧なプロセスを踏むことで、新しい、しかし耳慣れず歌えない賛美を、私たちの喜びの表現として受け取れるようになったという経験を、私が仕えている教会でする機会をいただきました。賛美というものは、私たちの心からの思いや感情と相まって、最終的にこだわりやわだかまりを造ることなく、神の喜びに応えることができる。だからこそ、賛美は本当に素晴らしいものなのだと思います。
 
今日もことあるごとに、神に向かって賛美をささげることのできる一日でありますように。心から祈ります。

27/06/2024

2024.6.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書58章1節
喉をからして叫べ。抑えてはならない。
角笛のように、あなたの声を上げよ。
私の民にその背きの罪を
ヤコブの家にその罪を告げよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書4章17節
その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
昨日のローズンゲン黙想ですが、ブログアップの時点でうまくくぁっぷロードをすることが出来ず、結局黙想をお届けすることができませんでした。楽しみにしてくださっている皆さまへは、まことに申し訳ありませんでした。気を取り直して、今日も御言葉から黙想するひと時を持ちたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想ったこと。私たちがどう頑張っても無理なことを、救い主イエスは私たちのためになしてくださったのだなあということでした。そのことを今日は「悔い改め」ということをキーワードにして、黙想してみたいと思います。
 
悔い改めとは何か。どうしても「懺悔」というイメージが強すぎて、悔い改めが指し示そうとしている真意というものを捉えにくくさせてしまっているのではないだろうかと思うことがあります。もちろん懺悔は大切なことだと思います。しかし、懺悔が自虐的になり過ぎてしまうがために、主が与えてくださるさまざまな良いものすら受け取れなくなってしまうような自己肯定感の欠如というものが、私たちのなかで時に生じることはないだろうかと思うのです。
 
悔い改めの先にあることとは、神が私たちの歩みをともに担い、私たちの導き手になってくださることへの「気づき」であると私は考えています。この気づきに至る方向転換、思い直しこそ、悔い改めることの意味です。希望があるからこそ、私たちは悔い改めというものを大切にできるのだと思うのです。
 
今日の旧約聖書の言葉にあるのは、神が預言者に対して告げるべき「罪の悔い改め」についてです。そのために喉を枯らし、角笛を吹きわたらせるように、大胆に告げよと神は預言者に告げられました。このような聖句に基づいて、今日も教会や集会、伝道者が罪の悔い改めというものを告げ続けているのですが、私が思うのは、その「伝え方」というものによっては、かえって人を委縮させ、かたくなにさせて、神と共に歩む幸いというイメージすら呼び起こさせない空気というものをつくりあげてしまうのではないかと思えてならないのです。そのような手法でゆがんだ支配をつくりあげようとするカルト的なアプローチというものは、意外に多いように感じているのです。
 
今日の新約聖書の言葉が物語っているのは、罪の悔い改めを告げるのは私たちの「主体」ではなく、私たちを幸いへと導いてくださる究極の羊飼いでるイエス・キリスト御自身であるということを、イエスがその生涯のなかで実践されたということへの「気づき」を促しているということなのだと私は思ったのです。私たちが悔い改めるというのは、あくまでイエスが共におられる安心感から、初めて生じるものなのだということを私は大切にしたい。そう思ったのです。
 
今日の一日が、皆さんにとってイエスがともにいてくださることへの幸いに包まれたものでありますように。お祈りします。

25/06/2024

2024.6.25(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書46章12~13節
聞け、心のかたくなな者たち
正義から遠ざかっている者たちよ。
私は私の正義を近づけた。それは遠くはない。
私の救いは遅れることはない。
私はシオンに救いをイスラエルに誉れを与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章10節
実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、今日は旧約聖書・イザヤ書の言葉に注目したいと思いました。私はこの聖句に触れて、とても面白いと思ったのです。
 
預言者イザヤは、神の言葉を民に語りますが、この民たちは「心のかたくなな者たち」と書かれています。つまり、神に背を向けて歩んできた人たちであり、もしかしたら、自分たちがまさか神に背を向けているなどとは思っていないかもしれません。それほどに心の感覚が鈍く、鈍さゆえに頑固に凝り固まってしまっている状態にあったのが、この言葉の向こう側にあった人たちでした。
 
普通考えるに、こういう人たちが待ち受けているのは、神罰のようなものであると私はつなげて考えてしまいます。しかし、神はそうではないのです。正義から遠い人たちに対して、自分の正義を近づけよう。心が頑固なあなたがたを、私の正義で心しなやかなものとし、救いを与えようというのです。確かに懲らしめはあるかもしれないし、実際にこの当時の民たちは辛酸をなめなければならないこともあったわけですが、しかし、神はご自分の民が苦しみ続け、頑固であり続けることをお望みではないわけです。だからこそ、私の正義を近づけて、ご自分の民を救ってしまおうという思われる。
 
私はこのことに感動を覚えました。自分に背を向けて好き勝手放題歩んでいる民たちに、自分の方から近づく。普通ならば向こうから近づくのが筋だろうなどと言うことを口走ってしまいそうになりますが、神はそうではない。ご自分から私たちに迫ってくる。近づいて来る。ここに旧約聖書に描かれた神の魅力というものがあるのだと私は思うのです。
 
20世紀を代表するユダヤ教神学者にA.J.ヘッシェルという人がいますが、彼は律法に込められた中心的なテーマである「愛」をもって人々に迫ってこられる。『人間を探し求める神』という代表的な著作がありますが、まさに神が私たちを追いかけるまでにご自身の愛を貫かれる。それが神の持つ正義だと言うことをあらためて思い出しました。
 
その神の愛に、私たちの心が温められて、私たちは神に応答できるのだと。信じるとは私たちからの発信ありきではなく、神の愛に対する応答に他なりません。神の愛に私たちが応答する時に、そこには神が準備してくださっている救いがあることを、私たちは想いつつ、今日の一日を過ごしていけたらと思わされました。
 
私たちを探し求め、追いかけてくださる神の守りと祝福が、今日も私たちを活かす源となりますように。お祈りします。

24/06/2024

2024.6.24(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編77節
あなたの憐れみが私を訪れ
私を生かしてくださいますように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章9節
私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになりますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、私は新約聖書・フィリピの信徒への手紙に記されている「深い知識とあらゆる洞察」という言葉に注目したいと思いました。このことを黙想したいと思います。
 
この言葉、実は私がかつてカルト宗教団体に属していた数十年前に、その団体はこの聖句を良く用いていたのを思い出しました。聖書の言葉を洞察力をもって深く調べ、知識を得なければならないということを、たびたび教えられました。しかしその実は、その団体が発行する出版物に記されていること「だけ」を徹底的に調べ上げることへの推奨だったのです(実際に『洞察』と呼ばれる事典があって、その本から調べ上げると、何となく洞察力があるような気分になったものです)。
 
今思えば、それは洞察でもなんでもないわけです。彼らの主張が記されているものを読み、難解なものが理解できたと思い込んでいただけでした。洞察とか理解力と呼ばれるものは、そんなものでは身に付かない、と言ったら語弊になりますが、それでも私たちが身に着けるべき洞察力とか理解力というものがどこから来るのか、聖書の言葉にやはり聴きたいと思うのです。
 
フィリピの信徒への手紙を書いた使徒パウロが言った洞察力や理解力の源は「あなたがたの愛」であると書きつづっています。つまり、それらの動機は神が私たちに与えてくださった愛によるものでしかないということです。神が私たちにいかに大切な存在として見守り続け、時に私たちにとって本当に必要なものを、御言葉と聖霊の助けによって適切にあたえてくださる神の知恵と力には、私たちに対する深い理解と洞察が込められていると私は思うのです。
 
この愛無しに、私たちは神を理解し、神の言葉を洞察することはできないと言っても過言ではありません。だからこそ、神の愛を憐れみとしていただきつつ、今日も神に生かされて私たちは生きる者とさせられる。このことに思いを寄せて過ごしたいと願わされました。
 
今日から始まるウィークデイの日々が、皆さんにとって深い理解と洞察力をともなったものとなりますように。それを見守り祝福してくださる神の愛がともにありますように。お祈りします。

23/06/2024

2024.6.23(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編22編23節
私は兄弟たちにあなたの名を語り伝えよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙1章11節
きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
19日よりお休みをいただいていたローズンゲン黙想を、今日から再開します。昨日までの勧告出張を無事に終えることができました。皆さんが祈ってくださったことを、神が祝福してくださったものと信じています。今回はカルトに関する講義を行うための出張でしたが、少しでもカルトに関する理解を深める機会を共有できたかなと思っております。皆さん、どうもありがとうございます。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「教会は何を伝えるのか?」という深い自問です。教会は神について、福音について語り伝えるところであるという認識を、皆さんはもとより多くの方々が一般に抱くイメージであることは間違いないと思います。
 
だからこそ、私たちはじっくりと自問したいのです。私たちが教会で、またクリスチャンとして語り、示している態度は、本当に神に、そして福音に基づいているものなのだろうかということを。そのことを考え続ける営みというものを、私は大切にしたいと思ったのです。
 
旧約聖書・詩編に描かれた歌い手の思いに、私たちは耳と心を傾けることができます。この歌い手は、イスラエルの王ダビデでした。富と権力を手に入れたダビデでしたが、それは彼自身の偉業によるものではありませんでした。そうではなく、彼に力と知恵を与え、王として油注いだ方をほめたたえ、その方のことを語り伝えようと彼は歌ったのです。、
 
それこそ神であり、ダビデはあなたの名、つまり神のお名前に込められた神の思いや願いを語り伝えようと謳ったのです。神の名とは「私は(あなたと共に)いる」という意味が込められています。私たちを活かしてくださる神が、今日もあなたと共にいる。この神のお名前に込められたその意味を語り伝えようとということなのです。だからこそ、ダビデはそれが自分の手柄によるものであるということは、一切語らなかったのです。
 
そのことは伝道者パウロも同様でした。私が伝えている福音は人によるものではなく、私に救いの道を与えたイエス・キリストによるものなのだ。だからパウロは決意したのです。私はもはや、イエス・キリスト以外に語ることはやめようと。教養も社会的地位も高かったパウロが、自分に与えらえた知恵を語ろうとも、それは彼の実績では決してなく、神がイエスを通して与えた祝福なのだと。
 
これらのことから、私たちが受けとめ、生活を通して語ろうとしていることが、何に基づいているのかという自問というものが、とても大切であることをあらためて思わされた次第です。今日、世界中で行われる主の日の礼拝のなかで、福音が福音として、神が神として語られることを心から祈りつつ、私もそれを伝える者として、神の助けをいただきつつ務めに当たりたいと思いました。
 
皆さんの一日に、神の名に込められた幸いがともにありますように。お祈りします。

19/06/2024

2024.6.19(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書51章4節
私の民よ、心して聞け。
私の国民よ、私に耳を傾けよ。
教えは私から出て
私は私の公正をもろもろの民の光とする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章28,30~32節
シメオンは神をほめたたえて言った。
「私はこの目であなたの救いを見ました。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
昨日(18日)は黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。そして今日お届けいたしますが、今日から土曜日(21日)まで韓国へ出張するため、ローズンゲン黙想をお休みいたします。楽しみにしてくださっている皆さまへは引き続き申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。韓国へは、カルト問題セミナーに参加して、日本のカルト事情について講演を担当します。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉ですが、旧約聖書・イザヤ書54章にあるこの言葉は、私の好きな聖句のひとつです。どこが好きかと言うと、神の分け隔てのない正しさが、もろもろの民の「光」とするというところです。私たちは神によって放たれる公正の光によって、生きる者とさせられているのだという預言者の言葉に、自分自身の生き方の指標というものを感じずにはいられないのです。
 
私の正しさで生きようとします。しかしその先には、正しいと主張し合う者によるぶつかり合いがあります。それが互いに一歩も譲られることが、また落としどころを見つけることが無ければ、その後に訪れるのは別離があり、分裂があり、さらなる衝突を見ることになる。だからこそ、私たちは究極的な公正というものを尋ね求め、その正しさによって生きることが本当に大切なのだと思わされます。
 
神がどのようにみえるか。そのことによっても随分隔たりがあることを思わされることも多々あります。神の平和という言葉をひとつ取っただけでも、好戦的に他の脅威を残滅することによって平和を勝ち取る神なのか、すべてを和解に導くべく自ら命を犠牲にしてまでも私たちに平和を提供する神なのか。それだけでも随分理解が違ってきます。
 
しかしどうなのでしょうか。私たちは個人の願望を神の思いにすり替えてはいないだろうか。そんなことも思わされるのです。神がこうであるに違いないと絶対化する態度。そこには常に軌道修正がともない、私たちの凝り固まった思いがあるのならば、神に解きほぐしてもらう必要があるのだと自戒を込めて思わされるのです。そのなかで、神の公正さが私を光とするという神の約束が、今日の私にどのように照り輝くのだろうか。そんなことをじっくりと黙想しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思わされました。
 
次回の黙想は、23日(日)にお届けします。どうぞ今週の残された日々に、神の守りと祝福が豊かにありますように。心よりお祈りいたします。

17/06/2024

2024.6.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編98編1節
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章16節
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されているふたつの聖句のなかで、旧約聖書・詩編98編の一節には「奇しき業」という言葉が登場します。神が私たちに対して行われること、つまり「業」が「奇しき」ものであると言うのです。奇しきとはなんでしょうか。国語辞典には「不思議な。霊妙な」と記されています。私たち人間の想像を超えた、私たちでは到底図ることのできない出来事が、神によって実現されることを意味しています。この詩を歌った者は、私たちにとって信じられないことが神によってなされたたために「新しい歌を歌いましょう」と人々に勧めています。
 
私たちの現実がたとえ、神のなされる御業が遠く感じたとしても、だからこそ、そのことが私たちの眼前で実現されようとしているときに、それが実に不思議で霊妙なる神の御業として表れるのだと言うのです。それは、劇的に起きるスペクタクルのようなものではないかもしれません。非常に地味で私たちの前をかすかに通り過ぎてしまうような出来事、私たちが耳を澄まし、目を凝らさなければ見えない者であるかもしれません。しかし、それこそ「奇しき業」がなせることなのかもしれません。何しろ、私たち人間の常識では考えられないことが神によって起こされるのですから。
 
その奇しき神の業は、非常に目立たない、ひっそりとした形で私たちの前に現れたのです。それが神の言(ことば)としてお生まれになられたイエス・キリストに他なりません。神の言葉が目に見える形で現れたとき、それは簡単に見過ごしてしまうような赤子のかたちで私たちの前に現れました。それは人々が期待していたような王のかたちではありませんでした。しかし、目立たないところにこそ神の御業が豊かに現れたのです。それは、取るに足らない存在である私たち人間に対しても、神の御業が豊かに現れることの宣言と約束に相通じるものがあると私は思えてならないのです。
 
私たちが不思議と思えるほどに神は意外な形でご自分を現わしてくださり、しかしその姿かたちははかなく消えて去ってしまうものではなくて、私たちに喜びの歌を与えるような充実感を与えるものなのだと。今日のふたつの聖句から感じさせられたことでした。私はこの不思議さに囲まれながら、今日という一日を歩むことがまた許されている。送り出されようとしているのだと。だから、神が与えてくださる御業の道を、今日も喜びつつ期待を込めながら一歩、また一歩歩んでまいりたいと思います。
 
皆さんの新しい一日にも、奇しき神の御業が豊かに働きますように。心からお祈りします。

16/06/2024

2024.6.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編104編27~28節
主よ、
その時に応じてあなたが食べ物を与えるのを
待っている。
あなたが与えると、彼らは拾い集め
御手を開くと、彼らは良いもので満ち足りる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章35節
私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。世界中で行われる主の日の礼拝、集会のすべてに、神による祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。
 
さて、礼拝や集会(それは日曜日だけとは限らない)が行われるたびに、神がそれら礼拝を通して、私たちに何を与えようとされておられるのか。礼拝を司る者としていつも考えるようにしています。何を当たり前のことをと思われる方もおられるかもしれません。しかし。当たり前だと思っていた者が決して当たり前でないのだということを、私たちはコロナパンデミックの数年間で改めて実感したのではないでしょうか。それは、礼拝についても同じことが言えるのではないかと思うのです。
 
礼拝は対面であるべきか、それともオンラインで済ませられるものなのか。そんな話題がここ数年のあいだに出ています。結論から言えば、私は二者択一で考えられる話題ではないと思っています。対面には対面の良さがあり、オンラインにはこれまで対面では考えることのできなかった新たな可能性というものを感じているからです。どちらにも良い面があるのであって、その良い面をいかに私たちは認識することができるかということが大切なのだと思っています。
 
だからこそ、対面であろうがオンラインであろうが、私たちが礼拝で本当に大切にしなければならないことがある。それが、今日のローズンゲンに示された聖句にもあるように、神が私たちに必要な「糧(かて)」を、私たちのために与えてくださるという事実を、私たちがいかに「自分にとって無くてはならないもの」として受け取っているだろうかという、私たちの認識こそ、私たちが常に確認し、自分自身が確かめ続けるべき大切なことなのだと思えてならないのです。
 
礼拝は「聖書の良い話を聞く会」では決してなく、もちろんそれも大切ですが、神に祈り、賛美をささげ、そのことを分かち合い、個人にとどまらず集められたひとりひとりが、神の喜びを共有できる無くてならない機会に他なりません。対面でもオンラインでも、そのために生きて働いておられ、糧を与え続けられる神がともにおられる。だからこそ、私たちはその神の喜びというものに心を寄せられるような礼拝こそ、今日のローズンゲンの言葉に呼応した礼拝の在り方を確認することになるのではないだろうか。そんな気がしてならないのです。
 
そんな思いとともに、今日の礼拝が祝福にあふれることを祈りつつ、礼拝に向かいたいと思います。私事、今日は朝夕の宮城野教会の礼拝に加え、午後は無牧教会の礼拝説教も担当します。礼拝で皆さんにお会いできるのが本当に楽しみです。では、素敵な日曜日を!

15/06/2024

2024.6.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ホセア書10章12節
正義のために進んで種を蒔き、慈しみの実を刈り入れよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章16~17節、19~20節
ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、自分の魂にこう言った。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚か者よ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された聖句のなかで、新約聖書・ルカによる福音書12章に描かれているのは「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれるイエスによって語られたものです。その中でイエスは「そして、群衆に向かって言われた。『あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。』」ということを人々に告げ、それからある金持ちのたとえ話をし始めました。
 
貪欲とは何でしょうか。国語辞典によると「自己の欲するものに執着して飽くことを知らないこと。非常に欲のふかいこと」とあります。仏教の世界では三毒・十悪のひとつとされており、仏教文化が多分に影響された日本において、貪欲を良く見る向きがないことは私たちも知るところです。
 
では、私たちはこの貪欲という言葉をどのように見ることができるのでしょうか。このたとえ話でも語られるように、愚かな金持ちは豊作によってこの後何年にもわたって遊んで暮らせるような財産を手にしたわけですが、私が思うに、大切なことは莫大な財産を得ることそのものが貪欲なのでなく、その財産によって自らの人生を楽しむことも貪欲なのでなく、この財の源がどこにあるのかという自覚であると思うのです。
 
その源とは、私たちに豊かさというものを与える神御自身です。私たちはあたかも自分で汗水たらして働いたものは、自分の努力の成果であると思うことがあります。そのことは実際的に間違いのないことと思います。しかし、聖書を通して神が私たちに伝え続けているのは、私たちに豊かさを与えるために神が生きて働いてくださった結果、私たちが神に生かされていることを心の礎にすることが幸いへの道であるということです。
 
ですから、イエスがこのたとえ話を通して、愚かな金持ちのどこが愚かなのかということについては、自分が豊かになっていることの根拠に対するイメージの欠如を指して、貪欲の愚かさというものを知らせたかったのだと私は受け止めたいのです。
 
今日の旧約聖書であるホセア書の一節で言われている「正義」とは、私たちの努力の結果生み出されるものでは決してなく、神が正しい御方であるということが中心に立ち、明らかにされることであると私は受け止めたいと思います。この正しさがどういう方向に向かうかというと、私たちの世界という土壌に神の慈しみが蒔かれることである。この慈しみが私たちを豊かにするのだというのです。だからこそ、神の正義と慈しみに生きるために、私たち自身の心が神の正義によって耕されることを、この聖句は私たちに伝えているのだと思います。
 
一週間の旅路も今日が最終日。この日々、私がどのような耕し方をしたのだろうかをじっくりと振り返りながら、明日の主の日を迎えたいと思いました。皆さんの一日にも、心を正義をもって耕してくださる方の慈しみが、守りと祝福を充分に与えてくださいますように。お祈りします。

14/06/2024

2024.6.14(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エズラ記3章11節
主の神殿の基礎が据えられたことで、すべての民は主を賛美して大きな喜びの叫びを上げた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章11節
イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が思ったテーマは「私たちの土台」です。私たちは何を土台として生きていくことができるのか。これがいわゆるキリスト教に属するものならば「神を土台として生きる」と答えることができますし、そのことに同意される方も多くおられることと思います。
 
では、神を土台として生きるというのは、具体的に何を表しているのでしょうか。私たちは礼拝で神の言葉の取り次ぎに触れることもあるでしょうし、このような聖書黙想を通して、神の言葉に向き合う機会が与えられることもあるでしょう。私たちはそれぞれが自由に神をイメージすることが出来るかと思いますが、そのイメージというものが、神が本当に私たちに現わしているイメージかどうかということを、常に自問することは必要な営みであると私は思います。
 
これは教会で働く者として常に感じ続け、また感じ続けたいと思っていることですが、私たちが神の持つ価値観であると思いながら、それが本当に神が思っていることかどうか、場合によってはその根拠すら乏しいと思えるようなことが、実はたくさんあるのではないかと思えてなりません。実は神を土台にしていると言いつつも、その実は私の生い立ちや慣習、私の感情や好き好みを根拠にして、そのうえで自分自身の信仰生活というものを営んでいるということが往々にしてあると思うのです。
 
だから、私たちには明確な土台を自分の心の中に据えることの大切さを想わされます。私たちの土台にあるもの、それは神御自身に他ならないですし、神御自身が語られる言葉に込められた神御自身の価値観を私たちは土台として生きることこそ、今日の旧約聖書の言葉にもある「人々の大きな喜び」へと導かれることを心の底から希望して、神の言葉に聴くということを大切にしたいと願うのです。
 
それは、教会の時代になって使徒パウロによって語られた言葉へ継承していきます。パウロは「すでに据えられたイエス・キリストという土台」を、手紙に書きしたためました。手紙の宛先であるコリント教会では、さまざまな価値観の衝突ゆえに人の憎しみというものが教会を支配していました。だから、コリント教会にはしっかりとした土台のうえに立つ必要があったのです。
 
コリント教会の人たちがイエス・キリストを意識していなかったわけでは決してありませんでした。みんなキリストを心に置いて生きていたことに間違いありませんでした。しかし、それは彼らにとって「土台」とはなり得なかった。それを邪魔したのは「自分自身の価値観」だったのです。徹底的に神の価値観、キリストが与える価値観というものを聖書の言葉に丹念に聴くことによって、言葉尻に縛られることなく、自分自身の価値観に支配されることなく、神の思いを尋ねて生きることにこそいただける幸いというものを胸に生きて欲しい。そんな使徒パウロの思いが手紙に込められたのでした。
 
この思いは、今日神とともに生きることのできる私たちにも継承されている。だからこそ、今日も神の言葉に聴き続け、自らの土台とされていることの自覚というものを確認していきたい。そのように願わされました。皆さんひとりひとりの土台にも、キリストの価値観がしっかりと据えてくださいますように。今日の主にある守りと幸いを心からお祈りします。

13/06/2024

2024.6.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記13章1節
私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書7章16~17節
私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものであるこの方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
私たちが聖書を読むときに、これらの言葉をどのように私たちは受け止めることが大切なのか。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、そのことを私たちに物語っていることを感じました。そのことを黙想してみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神がモーセを通してイスラエルの民たちに告げられた言葉であり、私の告げる言葉をすべて守り行いなさいという神のご命令です。神の言葉に従うということは、いつの時代にも神の民が大切にし続けてきたことです。完璧に守り従うことが出来るか否かではなく、守り従おうとする気持ちがあるかということが前提にあってこそ神の命令が生きてくるのだと私は思います。神は私たちの心を問われる方であるからです。
 
その際に、神は「付け加えたり減らしたりしてはならない」ということをモーセに告げられました。このひと言に、私は大変興味深いものを思いました。これをどのように解することができるか。文字通り、聖書の言葉に余計な解釈を加えず、そのまま受け入れればよいという考えもあるでしょう。しかし、神は目に見える行いよりもその動機や心をご覧になられる方であるということを考えれば、私たちは、その言葉に込められた神の思いや願いという本質を見据えたうえで、その本質に自分なりの欲求や願望、独り善がりな考えやえり好みというものを付け加えたり減らしたりすることがあってはならないということなのではないかと受け止めたいと思いました。
 
私たちが神の言葉に聴き従えないと思う時に、なぜそうなのかという「なぜ」を自分自身に問い続ける姿勢というものを大切にしたいのです。それが単なるわがままから来るものなのか、神の助けを得ようとせずままに自分自身の殻に閉じこもるがゆえに聴き従えない、いや聴き従おうという気持ちすら放棄してしまうようなことがあれば、私たちは神の助けというものに出会えないまま、ただ無為に時が過ぎてしまうかもしれません。それは大変もったいないことだと私は思ったりもしています。
 
神の御心に込められた本質にただ忠実だったイエスが、自分の言動が神からくるものなのか、それとも自分のオリジナルによるものなのか、神の御心を問い続けるならば分かることであると人々に伝えられました。それが今日の新約聖書に指し示された意味なのですが、イエスも神の言葉を機械的に文字面だけで読むのではなく、自分自身の願望で加除するわけでもなく、神の御心の本質に基づけば、それがどのような評価を受けようとも、それが神由来であることが分かるということを説かれました。
 
当時のイエスの言動は、神の名を冒涜した極めて身勝手なものであるという評価がありましたから、イエス自身の言動がいかに本質に基づいたものであり、神の言葉に聴従した究極のかたちであるかということが、分かる人には分かり、それが世界中に広がり、今日に私たちにも継承されているということなのだと私は受け止めたいと思ったのです。
 
神の本質に生きることの幸いというものをかみしめながら、今日の一日もまた歩むことができますように。皆さんの一日に、神様からの守りと祝福をお祈りします。

12/06/2024

2024.6.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編8編7節
(すよ、あなたは)御手の業を治めさせ
あらゆるものをその足元に置かれた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一6章12節
私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されているふたつの聖句に共通するテーマ、それは「支配されるということ」であると私は受け止めました。そのことを黙想したいと思います。
 
支配という言葉を、この一年たびたび用いてまいりました。私がカルトに関する書籍を出版してちょうど一年になろうとしていますが、カルトの定義を「ゆがんだ支配構造」であるということを提唱して以来、では支配とはいったいなんだろうかということを、日々考えて今日に至っています。支配という言葉にゆがみのない意味というものをとらえるためにです。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一片は、ダビデ王によって歌われた賛美ですが、森羅万象を創造された神の支配について言及しているものです。御手の業を「治めさせ」とありますが、これこそ「支配させ」と置き換えることのできる言葉です。神は私たちを含むご自分の創造物が、楽園という環境のなかで神との深いつながりによって幸福に生きるということが、神のたっての願いであるということです。
 
ゆえに、神が私たちに及ぼうとしている支配というものが、私たちを束縛し、有無を言わせないほどに自由を奪い取るような支配ではないということは一目瞭然です。この神の姿勢に基づいて、私たちは神の御手によってなされるすべての御業のもとに私たちが命与えられ、生かされているというのだというダビデは歌いました。
 
このダビデの思いを踏まえて今日の新約聖書の言葉を読みますと、とても理解できます。すべてのことが許されているけれど、すべてが許されているわけではない。このパウロが手紙にしたためたことと、支配という言葉が抜き差しならぬ関係にあります。これを支配という言葉に置き換えて考えてみるならば、「私たちにはすべての支配が許されている。しかし、すべての支配が許されているわけではない」とも言えるのではないかと思います。
 
私たちは自分の意思によって、自分自身に与えられた自由を行使することが許されていますが、それがゆがんだ支配を生み出し、結果として自分の向こう側にある人々を苦しめる結果になってしまうとすれば、それはパウロが意図して書いたこととはずれてしまうのだと私は思います。パウロは知っていました。私は誰からも支配を受けない。受ける必要はない。なぜならば、神によるゆがみのない支配を受けているのだから、ということをです。
 
人を幸福へと導く神の支配を私たちが受けていることの幸いというものを柱にして、それに対する人間によるゆがんだ支配というものを考えつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと願わされました。皆さんの一日にも、神様の平和に満ちあふれた支配がともに、豊かにありますように。お祈りします。

11/06/2024

2024.6.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言12章20節
平和のための助言には喜びがある。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章18節
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どちらも「平和」をテーマとして語られた言葉です。平和という言葉に生きる者の幸いについての格言が語られ、手紙を通して人々に勧められています。
 
私は昨晩、そのことについてずっと思いを巡らせていました。平和であることの幸いは誰もが知っていることです。しかし、平和をつくることの何と難しいことよ。そう思ったのです。そもそも平和というものは「関係性」のなかでこそ成り立つものなのですが、人間と人間とのあいだに、そして神と人間とのあいだに、私たちは平和をつくりあげることの難しさというものを痛感しているのではないだろうか。少なくとも私はそのような困難を覚えています。
 
平和をつくり出すのには、ものすごいエネルギーを要します。どちらか一方が平和を心から望んだとしても、相手側が必ずしも私の望むような平和を望んでくれるわけではない。お互いに平和を望んでいるのに、その平和が一致しないとき、また相手の平和観というものを尊重することができないときに、底に衝突の種を産み、その種を用いて優劣を競ったり、相手を刺激することで、その刺激に耐えられないままにいさかいに発展する。使わなくても良いエネルギーを徒労するために費やすなんていうことは、日常茶飯事の出来事です。
 
無駄骨を感じるようなエネルギーを垂れ流してしまうくらいならば、互いの平和のために労力を惜しみなく用いる者でありたい。そう思えてなりません。では、そのエネルギーとはいったい何かという話なのです。私は自分自身のエネルギーとされる体力や気力、知力や性引力というものの源というものに、是非目を注ぎたいと思うのです。その源とは、神の注がれるエネルギーであり、そのエネルギーこそ私たちを平和へ導く聖霊の助けに他ならないと私はとらえたいのです。
 
平和を造る者はすでに祝福されている。なぜなら、あなたがたは神の子と呼ばれているからである」(マタイによる福音書5章8節。私訳)
 
イエスによって語られた「8つの祝福」のなかで、平和を造る者と、神の子とされているというふたつの事実が抜き差しならぬ関係にあることを知らされます。つまり、神の子とされていることの深い認識が、私たちをピースメイカーとして整え、互いに神からの祝福をもって生きることが出来る喜びに包まれる。そのためには、聖霊が私たちの思考感情を豊かに包み込むことで、私たちの平和をつくりあげる原動力であることを、私たちが平和のうちに感じ取るところにこそ、真の幸いというものがあるのだと受け止めたいのです。どんなに歯を食いしばって己のエネルギーを使っても、それだけでは平和を造ることはできないということを、私は心から思いたいのです。
 
平和に逆行する力に触れることは疲れますし、もしかしたら人を疲れさせようとしている力を振りまいているかもしれない。そんな自己省察を今日の聖書の言葉を通してしてみたいと思わされました。すべての人と平和に過ごしなさいという聖書の言葉が、今の私に何を意味するのだろうか。好戦的にならず、しかし物事をうやむやにするのでもなく、神が望んでおられる平和を希求する一日でありますように。皆さんの一日にも、神の与えてくださる平和がともに、豊かにありますように。お祈りします。

10/06/2024

2024.6.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記10章3節
モーセとアロンはファラオのもとを訪れ、彼に言った。「主はこう言われる。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章1節
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今週も新しい週日の日々が始まりました。皆さんのウィークデイの日々に、神である主の守りと祝福がともにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「神による解放」であると私は受け止めました。そのことを黙想を通して深めてみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトでの奴隷状態に苦痛を感じていたヘブライ人に、神はモーセを通して人々を束縛から解放されることを宣言します。エジプト王に通じることのできるモーセ(彼は王族として育てられたヘブライ人)でしたから、兄であるアロンをともなって、王に神の思いを伝えます。自分の民をエジプトから去らせると。
 
ただ、この時エジプト王は、モーセとアロンを通して語られた主の言葉を聞くのは、これが初めてではありませんでした。聞けば聞くほど、王は心をかたくなにしてヘブライ人を解放することを拒みました。それに対して、神はご自分の力をもってエジプトに災いを降りかからせます。しかし、災いが起きれば起きるほど、エジプト王は心をかたくなにしたのでした。
 
私たち人間の悲しい性がここにあると思いました。自分にとって不利益なことがあれば、私たちは心を素直にして向き合うことができない。心が意固地になってさらに人を困らせようとする。それを行使している当人は正義のためにそれを成そうとしているのかもしれないが、それは傷つきそうな己のプライドを誇示しているしか過ぎない。実にファラオの行っていることは、私たち人間のしばしばみられる行動に共通するのではないか。自戒を込めつつ、そのように思えてならないのです。
 
しかし、そのような人間のプライドなど、神の御前には何の効力も発さない。神はただただご自分の民を守るために、ご自分の御心というものを明らかにされました。エジプトから去らせ、神が約束された土地にご自分の民を導こうとされる。それが自由と解放への道であるということなのだと。人々にとっての自由と解放とは、神の言葉によって神とともに歩むことで実現可能とする自由と解放なのです。
 
今日の新約聖書の言葉で告げられている「奴隷の軛」とは何なのだろうか。自由と解放をキリストを通して与えられた神が、その対極にあるものとして「奴隷の軛」という表現を私たちにパウロを通して与えられました。軛(くびき)とは、本来家畜を縛り付けるための農具です。自分の思い通りにならないひとつの象徴とも言えるでしょう。
 
この「自分の思い通りにならないこと」と「私たちのプライド」というもののあいだにこそ、それに束縛されてしまう私があるのだと思うのです。ファラオしかり、そして私たちしかりなのです。私たちに神からの自由と解放を妨げるものがあるならば、その最大たるものこそ、自分自身を縛り付ける私自身のプライドなのだと。そこから解放されるために、神のなされたことに想いを寄せる一日でありたいと心から願わされました。
 
自分自身を守ることは大切です。しかし、本当に守られなければならないことは、神との関係性によってこそ浮き彫りにされてくるのだと。だからこそ、神の思いに込められた自由と解放というものを、誠実に受け取る者でありたいと思います。決してつまらないプライドの誇示につながらないような誠実さを。今日も主にあって素敵ないちにちでありますように。お祈りします。

09/06/2024

2024.6.9(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記31章4節
神は私の道を見つめ
私の歩みのすべてを数えていないのだろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章6節
五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間の朝を迎えました。今日の主の日、世界中で行われる集会や礼拝の一切に、神からの豊かな祝福がともにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して感じたこと。それは「神は私たちの細部までご存知であり見守っておられる」と私は受け止めました。
 
私たちは、神から見捨てられたと思えたような経験をしたことはないでしょうか。ここぞの時に神からの助けをいただきたいと思っても、なかなか自分の思うように神が助けの手を差し伸べてくれないのです。本当に神がおられるならば、その神を心から信じているのに、どうして神様、あなたは振り向いてくれないのですか。そんな感じで愚痴りたくなるのです。少なくとも私はこのような経験を何度もしているように思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、まさに苦難の渦中にあった義人ヨブの訴えです。義人というのは、神がおられるということを人生の土台にして、神とともに歩んできた人生の持ち主という意味での義人です。神がともにおられることなど、彼にとっては当たり前のことだったのです。しかし、そんなヨブでさえ、神が本当におられるのだろうかと疑いたくなるような出来事が確かにあったのです。ヨブとて市井のひとりに過ぎませんでした。ここに、私たち人間の真実というものがあるのだと私は思います。
 
しかし、ここにこそ神の真実というものもあるのであって、神が本当に人に対して助けの手を差し伸べられるのは、神がベストと思えたときなのだということを、私は心から信じたいのです。神がベストと思われる時と、私たちがベストと思える時のあいだには、時にいささかのズレというものがあるのだと、私はそう受け止めたいのです。そのギャップが私たちを苦しませ、痛みを生じさせるのだと。そんな風に考えたいのです。
 
イエスは言われました。どんなに小さい小鳥でも、神はその一羽すら忘れることはないのだと。小鳥を取るに足らないものととらえるのは、私たちの固定観念かもしれません。しかし、神の世界は違う。神にとって必要でない存在など無いのであって、どんなに小さくとも忘れることなく、その小さな存在が生きることができるために、ベストタイミングをもって見なしてくださる。ここに神の魅力というものがあるのだと、私は今日の旧約聖書の言葉にあわせながら、メッセージとして聴き取り、受け取りたいと思いました。
 
一羽の雀こそこの私なのだ。この雀を養ってくださる神に感謝しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日に、神からの守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

08/06/2024

2024.6.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編27章10節
父と母が私を見捨てようとも
主は私を迎え入れてくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章14節
そして、私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあったのに、あなたがたは蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「受け入れ、迎え入れる」であると私は受け止めました。具体的には、究極的に両手を広げて私たちを迎え入れてくださる神がおられるということ、私たちを迎え入れてくださる神によって受け入れられる私たちもまた、神の思いを胸にして人を迎え入れることができるのだということを、今日のふたつの聖句は私たちに伝えているような気がしてなりません。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一片は「父と母が私を見捨てようとも」とあります。私たちにとって親の存在というものがいかに大切なものであるかということは、私たちの誰もが知っていることです。しかし、そうは思っても実際に「親に見捨てられる経験」ということが世の中には実際にあるわけであって、理想と現実のあいだに大きな隔たりが存在することも、私たちは自他の経験のなかで知らされているのだと思います。
 
私は「親に捨てられた」経験があります。幼い頃父親から捨てられて、最近母親から縁を切られました。その詳しい事情はここでは割愛しますが、最終的に神の御心に立つということは、さまざまな人間の感情に波風を立たせ、時には嵐と暴風雨を巻き起こすような負の力というものを生み出すことを実感させられています。
 
しかし、そのような感情の先には、やはり両手を広げて向か入れてくださる神がおられる。本日の詩編の言葉は、そのことを心から感じさせてくれる大きな慰めと励ましというものがあることをつくづく思わされるのです。父と母が私を捨てようとも、主は私を迎え入れてくださる。神の御心というものに立って誠実に生きようとするならば、神は必ず平安と祝福を私に、そして私のみならず私の向こうにあるすべての人たちにも及ばせてくださることを信じたいのです。
 
人は誰でも、つまづきとなる何かを持っています。差し障りという言葉でも言い換えることのできるものかもしれません。その差し障りというものが、人間にさまざまな負の感情を生み出す元になるのかもしれません。しかし、人間を簡単につまづかせるかもしれないそのような差し障りですら、私たちの神ははねのけて私たちを迎え入れてくださる。ここにこそ、私たちの生き方のモデルというものが込められているような気がしてならないのです。
 
私たちは簡単につまづくし、そのつまづきというものが、なかなか簡単に自分自身のうちから取り除けないことをよく知っています。しかし、そんな私たちを大切に思ってくださっている神の親心というものに励まされながら、少しでも神が与える平安の道を歩むことができたら、どんなに幸せだろうと思うのです。この幸いのために、今日という一日が用いられることに感謝したい。そんなことを思わされました。
 
今週も最終日を迎えました。この一日が神の与えてくださる祝福によって平安のうちに過ごすことができますように。心からお祈りします。

07/06/2024

2024.6.7(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記23章20節
私は使いをあなたの前に遣わし、あなたの旅路を守り、私が定めた所に導き入れる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書2章13節
博士たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句。いずれも何かの出来事に先行して、神が私たちにこの後に起きることを知らせ、その命を守られるといった内容です。神が私たちのために先立って歩まれる方であることを私たちに伝えるものですが、私たちの生きる現代に、そのような「予告」と呼べるようなものを体験することがあるのだろうか。そんなことをふと思わされたことから、今日の黙想を始めたいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、出エジプトのさなかで、神がモーセに告げられた言葉です。民全体に語られる前に、その民を率いるリーダーに向けて、いわゆる「先立って歩まれる神」について告げられた言葉でした。その神が、ご自分の使いを遣わして民を導くのだから、その声に聴き従いなさいと、モーセに告げられたのでした。
 
この聖書箇所は、イスラエルの民に神が十戒を与え、その十戒に続いて契約のための律法を授けられたシーンのなかで語られています。私はこんなイメージをしました。私たちに先立って歩まれるのは神なのだけど、具体的には十戒のご命令が、そして契約を結ばれた主なる神の律法が、私たちの先頭を歩んでいる。そんな印象です。
 
つまり、私たちが歩むために無くてはならない指針というものが、神の口から語られる言葉なのだと。これだったら、神の「予告」として、私たちがいついかなる時でもその予告の言葉として、私たちは神の言葉に聴き、受け入れ、従うことができるのだと私は感じさせられたのです。私たちの命を守るために、神はご自分の言葉を豊かにお与えくださる方なのだと。その守りの根底にあるものは、注がれた命を慈しむ神の愛に他ならないのだと。
 
今日の新約聖書の言葉は、人間のエゴによって邪魔者は消そうとたくらむひとりの王。その背景には恐怖と不安に満ちあふれた人間の心がもたらす横暴にさらされそうになった親子に、エジプトへ逃げよと告げられた神がおられた話です。幼子イエスが殺されないために、その命が守られるために、神が使いを遣わして彼らをエジプトへ逃避させたきっかけとなったエピソードです。
 
全ての根底にあるものは、人間の不安です。出エジプトの民も、先行き見えない不安のなかを歩まなければなりませんでした。赤子を皆殺しにしようとする王の心にあったのも不安と恐れでした。しかし、その先に平安が訪れるか、それとも不幸なことが起きるかは、その不安が何によって解消されるかということなのです。人の慰めや励まし、不安を和らげるための科学的な方法、生理欲求などいろいろ解決のすべはあるでしょう。
 
そのなかで、今日の聖書の言葉が伝えていることとは、神の語られる言葉にこそ、究極的な助けがあることを私たちに伝えているのだと。この言葉によって、今日も私たちが生きるための指針というものが定められていることを、一日を生きるための道しるべとしていきたいと願わされました。そんなことを黙想しました。
 
皆さんにとっても今日一日の道程が、神の守りと祝福に満たされた言葉によって裏打ちされたものでありますように。お祈りいたします。

06/06/2024

2024.6.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書43章5節
恐れるな。私はあなたと共にいる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録18章9~10節
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「私はあなたと共にいる」であると私は受け止めました。実際に旧約聖書イザヤ書でも、新約聖書使徒言行録にも、日本語では全く同じ言葉をもって、このことが神によって語られています。
 
私はこの「私はあなたと共にいる」こそ、聖書全体を貫く一番のテーマなのではないだろうかと思えてならないのです。神が人間に対して終始一貫して語られ続けているこそ「私はあなたと共にいる」というひと言に尽きるのです。この神の宣言に基づいて、アブラハムなど族長時代の時も、モーセ率いる出エジプトの時も、その後のイスラエルの歴史においても、そしてイエスが神の御心を完璧なまでに貫き通した時も、そして聖霊の導きによって教会が建てられて今日に至るまで、神にとっての最大のテーマが「私はあなたと共にいる」だったのだと。
 
神のお名前であるYHWH(いわゆるヤハウェ、ヤーウェと呼ばれる神の名。エホバは後代の人たちが便宜上付けた呼び方なので、発音的には正しくありません)の意味が「私はいる」であると、旧約聖書・出エジプト記3章に示されているわけですが、この名前はすべての存在を表す動詞に起因するものであることから、「私は(あなたと共に)いる」と解することができます。つまり、神のお名前こそ、今日のローズンゲンに示された聖書のテーマであり、語弊を恐れず申し上げれば、聖書全体の示すテーマであると言えるのだと、私はとらえています。
 
今日の新約聖書の言葉である使徒言行録18章は、使徒パウロがギリシアの都アテネから、第二の都市であるコリントへ移り、約1年半のあいだこの地でキリストの良いたよりを宣べ伝えたことが記されています。後にパウロはこの教会へ宛てた手紙のなかで、自分自身アテネでの宣教で心身ともに疲れ果てて、もうキリストを語ることができないのではないかというくらいに衰弱してしまったことを記しています。しかし、にもかかわらず、彼は1年半ものあいだ、テントづくりという副業をおこないながらでも、精力的にキリストを伝えることに専念できたというのです。
 
このパウロの内に起きた原動力こそ、神の語りかけに他ならないと私は思います。「私はあなたと共にいる」このひと言だけで、パウロは喜びも悲しみも共に過ごしてくださる神に自分自身を委ね、すべてを託して、宣教の日々を生きることができたのだろうと思いますし、私もかくありたいと心から憧れ、このことこそ自分の生きる原動力として神からそのような思いをいただきたいと願うばかりです。
 
昔、恩師は「使徒言行録」は「聖霊言行録」だということをお話してくれたことがありました。使徒たちの働きとは、彼らを平安のうちにご支配くださる聖霊のお働きに他ならないのだと。だから、今日の聖句に示されたパウロの働きの根底にあるものこそ、聖霊のお働きに他ならないということです。私がかくありたいと思う時に、聖霊が自らのうちに働き、この聖霊の働きこそ、イエス・キリストのお働きなのだという深い自覚をもって、今日の一日を歩みたいと思いました。
 
皆さんと共にいてくださる神が、今日も皆さんの一日を祝福してくださいますように。お祈りします。

05/06/2024

2024.6.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨナ書2章8節
命が衰えようとするとき
私は主を思い起こした。
私の祈りはあなたに届いた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章6節
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された聖句のうち、旧約聖書の言葉はヨナ書によるものでした。ヨナは神の命令を拒んで逃げようとするなかで、魚の腹の中に飲み込まれてしまいました。その腹の中で、ヨナは気付かされました。自分が魚に飲み込まれたのは、神のもとから逃げたその報復だからではない。自分がいかに神を信頼できなかったかを静まって考えるための機会だったのだ。
 
ヨナは、今日の聖句でも「私は主を思い起こした」と告白しています。一時そのことを忘れたとしても、思い起こすことによって得られるものがある。記憶がリアルによみがえった時に、あらためて神が私を助けてくださるではないかと思い起こすことができたヨナは、神に祈りをささげます。神はヨナの心のうちをすべて受け入れられました。そして、ヨナは魚の腹から吐き出されて、神の命令通りにニネベの町へ赴くことができたのでした。
 
逃げることによって気づかされることがある。逃げるということが悪であるという教育を受け続けることによって、痛く辛い思いにさせられることがあります。そんな痛い思いをするくらいだったら逃げたほうが楽なのにと思うことがあります。だからと言って、逃げた結果すべての苦痛から解放されるかと問われれば、決してそんなことはありません。逃げたら逃げたで、他の苦痛が待ち受けていることだってあるのです。ヨナのように。
 
しかし、ヨナの場合は環境が変わることによって新たな苦悩が襲ったとしても、考え直すことができました。新たな視点をもって自分自身のあり方というものを神と向き合いながら問い続ける余白というものが生まれました。逃げることが決して悪いことではない理由というものが、ここにあることを改めて気づかされます。環境を変えて考え直すということは、神が与えてくださったプレゼントなのでしょう。ヨナはそのことを実感したのだと思います。
 
良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、すべて神に打ち明けることができると、今日の新約聖書の言葉は私たちに伝えています。二人の熱心な信徒たちのあいだに不和が生じたとき、ふたりさの熱心さが神に向かっているはずなのに、ぜんぜん一致することができない。教会の世界でもよくあることです。結局のところ、自我というものに縛り付けられて振り回されている現実が、ふたりの信仰者にはありました。だからこそ、手紙の筆者であるパウロは勧めます。ただ神に向いて、すべてをさらけ出しなさいと。そうすることで、自分自身の姿というものを冷静に見ることが出来るのだと言いたかったのではないか。そのように思えてならないのです。
 
そんな営みを通して、今日の一日も神と向き合うことで自分自身を見つめることができますように。主の守りと祝福がすべての人々とともにありますように。お祈りします。

04/06/2024

2024.6.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記33章14節
主は言われた。「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章9節
したがって、安息日の休みは、神の民にまだ残されています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「安息」です。安息とは「安らかに休むこと」(広辞苑)であり、実際に今日の旧約聖書・出エジプト記で日本語に訳されている「安息」も、「休み」を意味する原語(ヘブライ語)が用いられています。つまり、神は私たちに対して、心に安らぎを得るために休息を与えてくださるということを意味しています。
 
では、神はどのような時に私たちに安息を与えてくださるのか。今日の聖書の言葉から考えてみたいと思いました。この時のモーセの心境というものに、私は心が寄せることができると思いました。ときのイスラエルの民たちは、いわゆる「金の子牛事件」によって、神から大きな怒りを買いました。その後に、神は再びイスラエルの民を約束の地へと導くために出発を命じます。
 
金の子牛事件は、あてのない旅をさまよい歩かなければならないイスラエルの民にとって、もっと安定を求めるための行動でした。農耕と豊穣の象徴である牛を拝むことによって、遊牧よりも定住を彼らは求めました。つまり、神の導きを放棄して生きようとしたイスラエルの民たちの決断であったのです。
 
つまり、彼らは自分たちの方法で「安息」を探し求め、そこにすがろうとしました。しかし、それは自分たちの休息に神を排除し、関わらせないということでもありました。そのように、自分たちの欲求に身を任せて神を簡単にないがしろにしようとする民を、この後も導き続けなければならないリーダーとしてのモーセの不安は、ただならぬものがあったのではないかと私は思うのです。

しかし、そんなモーセに神が応えられたのは「私があなたを安息へ導く」というひと言でした。不安を覚える時にこそ、安息の主体はどこにあるのかということを、神はモーセへ気づかせようとしました。だから、あなたは安心して歩みなさい。そんな神の器の大きさがモーセの心に響き渡る一瞬がここにあったように私は思わされました。安息とは自分自身で創生し、自分好みの休みを貫くことではなく、究極的には神が私たちの必要をすべてご存知なうえで、私たちの命を活かすために適切に与えられるものである。私はそのように受け止めたいのです。
 
だからこそ、安息に導かれる私たちの神は、安息にいたるまて共に歩んでくださる方なのだと、今日の聖書の言葉は明らかにしています。今日も働かなければならないことがたくさんありますが、そんななかでも神は私たちの心に安息が芽生えるべくともに働いてくださることを胸にしつつ、希望をもって歩んでいきたいと願わされました。
 
皆さんの一日にも、安息の幸いがともにありますように。お祈りします。

03/06/2024

2024.6.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記下19章15節
主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章12節
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
毎週月曜日は比較的ゆっくりめに目覚め、いつもより遅く日課に取り組むのですが、今朝は緊急地震速報のアラーム音とともに目覚め、外から聞こえる(おそらく近所の気象台からかもしれません)カウントダウン音でしっかりと起き上がりました。結果としては私の住む地域に揺れは無かったのですが、能登半島では強い揺れがありました。不安のなかにある能登にある方々に、神の守りと慰め、励ましが十分にあることを祈りました。
 
私たちの神は、すべての国、人々の上にある。今日のローズンゲンにも示された聖句が語っているメッセージです。私たちのすべてにその自覚はありません。特にキリスト教国でもない日本においては、聖書に書かれている神が日本をもご支配なさるという感覚は決して共通のものではありません。そして、こういうことを書きますと、そんな主張はキリスト教の傲慢の何物でもないとおっしゃるかもしれません。
 
しかし、私たちの神は全世界をご支配される神であり、決して極限的な所で働かれる方ではないと私は信じたいのです。愛と平和を携えて、イエスをキリストと立てられて私たちに臨まれる方、それが聖書に描かれた神に間違いないという意識を大切にし続けたいのです。
 
ただし、この意識は私、私たちの「優位性」をアピールするものでは決してありませんし、その優位性をもって他を見下すものでも決してないのです。あくまで神がすべての民を愛しておられ、その愛をもって私たち人間を取り扱ってくださるということの朗かな証左なのだと、今日の聖書の言葉は私たちに伝えていることをただただ信じたいのです。
 
私たちが世の中にある政治や宗教、あらゆる組織に対してあえて批判を行うとするならば、その組織の行っていること、人間に及ぼす影響が、明らかに神の愛を阻害しているときにこそ、大いに建設的な批判を行うべきであると私は思います。しかし、優位性を強調し、自分がその優位性に立って自分と相容れないものに対して見下すことを目的として批判の手を強めるならば、今日の聖書の言葉が指し示す神の思いに逆らって生きることにつながるのではないかと思えてならないのです。
 
私が牧師という仕事をするなかで、何を第一として生きるべきか。そんなことを思わされます。神の愛をいただき、それを私たちの世界の共有財産として大切にし続けること。いたずらに他を批判して自分の優位性を高めるのではなく、あくまで自分自身に与えられた務めにただ誠実であること、その誠実さをもって他者に出会いふれ合うこと。最終的にそのような出会いと交流の真ん中に、すべてをご支配される主なる神が輝くこと。そんなことを心から願いつつ、今日の一日を過ごしていきたいと願わされました。
 
どうかこれ以上、人々の不安が助長されませんように。たとえ不安のなかにあっても、すべてをご自分の愛をもってご支配される神が、すべての人を慰め励ましてくださいますように。皆さんの一切に神の守りと平安がともにありますように。お祈りします。

02/06/2024

2024.6.2(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編23編6節
命あるかぎり
恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう
日の続くかぎり。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録2章46~47節
(信じた者たちは)毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってきました。そして主の日が私たちのもとに訪れました。世界中で行われる集会、そして礼拝のすべてに、教会のかしらにして救い主であるイエス・キリストの喜びがあふれますように。祈りつつ、私がお仕えする教会でもそのようなスタートを切ることができればと心から願うばかりです。
 
今日のローズンゲンを通して私たちに与えられたふたつの聖句は、まさに教会のあるべき、教会がそうあって欲しいと願う姿が描かれています。それは決して、理想でもなければ、努力目標でもありません。実際に2000年前に聖霊降臨を受けたイエス・キリストの弟子たちが「実際に」経験したことでした。信仰の実体であり根拠であるイエスが私たち一人ひとりの心身に、聖霊なる神の御臨在とともに染み込んでいったとき、イエスが人々に与えられた価値観によって人間が生きるとこのようになるのだという実録が収められているのです。
 
この信徒言行録に描かれている人々は、現代に生きる私たちと本質的に何ら変わりはありません。根本的な罪を負いつつも、イエスによる救いによって命を再生を経験し、聖霊降臨によって新たな人生が与えられたという点においては、私たちと全く変わりはありません。ですから、2000年前に人々が経験したことは「昔の話だから」「そんなの所詮理想論だよ」と片付けてしまうことのできないものだと私は思います。
 
また、これは私たちの努力「だけ」でなされるものでも決してありません。このような信仰者の姿が現実のものとなるためには、もちろん私たちの自覚というものが問われ、常にそのような姿に抗おうとする自我というものと対峙する必要があるでしょう。しかし、そのような自分自身のありように気付きと自覚を与え、自らが変革させられる中心にあるものは、信仰の実体であり根拠であるイエスが私たちのために送ってくださった「聖霊」の助けと励まし無しにはそうはならないのです。2000年前の信仰者たちには、聖霊の助けというものが自分たちを活かしているのだという、十分な自己認識というものがあったに違いないのです。
 
人から好意を寄せられるために、小手技をもってあらゆる工夫を凝らすのではなく、聖霊によって喜びを得た人の集まるところには、自然に人間が憧れるような行為があふれたに過ぎないのだと私は思います。ですから、私たちに期待されていることがあるとすれば、聖霊の導きと助けが自分自身をキリストにおいて生かしてくださることを信じつつ、目の前に与えられた務めというものに、ただただ誠実であることなのだと。今日の聖句から得た黙想です。
 
どうか今日の一日も、そのような喜びに満たされたものでありますように。皆さんの一日のためにお祈りします。

01/06/2024

2024.6.1(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上1章15節
私は主の前に自分の胸の内を注ぎ出していたのです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書7章38節
(女は)背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、ローズンゲンは毎日「断片的」な聖句を提示していますので、一見するとこのふたつの聖句にどのような関係性があるのだろうかと思わされることがあります。しかし、確かに今日の聖句は確かに関連性のあるものであると、私たちは知ることができます。そのあたりを踏まえながら、聖句をいただいてまいりたいと思います。
 
今日の新約聖書は「ある町に住む一人の罪深い女」が登場します。あえて罪深いと書いているところ、なぜ女性がそのように呼ばれるようになったのかは、それ以上の情報を提供することはありません。ただ、この女性を罪深い女とみなしているファリサイ派の人々が「素性でわかるはずなのに」と言っているところを見ると、外見だけで簡単に罪人と決めつけてしまえるような人物なのであったろうと推測できます。
 
この女性が香油を携えてイエスに寄り添い、自分の流した涙でイエスの足をぬぐい、接吻をして、香油を塗り始めました。なんともなまめかしい光景です。この行為をイエスは大いにほめ、最終的には女に対して「あなたの罪は赦された」と宣言されるのです。ですから、この話は女性の信仰というものを非常に好意的なかたちで見ることのできる物語として知られているのだと思います。
 
しかし、私は自分のこととしてそう思うのです。私はイエスのような対応をするのではなく、おそらくファリサイ派に近い反応というものを採ってしまうのではないだろうかと。見た目で罪人と判断できるような人が取ったエキセントリックともとれる行動。このことだけで一段低く見てしまいそうな自分自身の偽らざる姿というものを決して否定できないのです。何とも浅ましく、恥ずかしい話なのですが、これが人間の持つ非常に悲しい性なのかもしれません。
 
外見や固定観念だけで、人間をいとも簡単に判断しようとする態度こそ、いわゆる罪のなせるわざなのだと私は痛感させられます。神がその出来事に何を思われているか、そのイメージというものを探ることなく、自分自身で勝手に決めつけてしまうわけですから、神の所在なきところで物事が進んでしまうことこそ、罪の本質の何物でもないと私は感じたのです。
 
人が何と言おうとも、イエスはこの女性の内にある思いの本質というものを大切にされた。このことを私も大切にできるならば、どれだけ温かみのある世界が私たちを取り囲んでくれるだろうかと思ったのです。今日の旧約聖書に示された言葉も、ひとりの女性ハンナの苦痛が、神殿での神への祈りに動かされました。子が与えられない苦痛を胸に、ハンナは必死に神に祈りを傾け続けました。
 
この祈りの姿を、祭司エリは「酒でも酔っているんじゃないか」といぶかしく思います。そして酔いを覚ましなさいとハンナに語りかけたのでした。明らかにエリによる、見た目と思い込みだけで判断した事実誤認の出来事でした。そして、ハンナの苦痛を受け止めた神は、やがて彼女にひとりの男の子の命を授けました。後にイスラエル国民の指導者となるサムエルの誕生を、ハンナは神からの祝福として経験するに至ったのでした。
 
それが神の願われていることであるならば、神は必ずその思いの本質が光輝くように果たしてくださるのだ。だから私たちも、枝葉のどうでも良いことにこだわる思いから解放されて、今日の一日というものを歩んでいきたいのです。どうか今日という時が、そのことを実感できるひと時となりますように。皆さんの主にある守りと祝福を、心よりお祈りします。