19/06/2024

2024.6.19(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書51章4節
私の民よ、心して聞け。
私の国民よ、私に耳を傾けよ。
教えは私から出て
私は私の公正をもろもろの民の光とする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章28,30~32節
シメオンは神をほめたたえて言った。
「私はこの目であなたの救いを見ました。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日(18日)は黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。そして今日お届けいたしますが、今日から土曜日(21日)まで韓国へ出張するため、ローズンゲン黙想をお休みいたします。楽しみにしてくださっている皆さまへは引き続き申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。韓国へは、カルト問題セミナーに参加して、日本のカルト事情について講演を担当します。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉ですが、旧約聖書・イザヤ書54章にあるこの言葉は、私の好きな聖句のひとつです。どこが好きかと言うと、神の分け隔てのない正しさが、もろもろの民の「光」とするというところです。私たちは神によって放たれる公正の光によって、生きる者とさせられているのだという預言者の言葉に、自分自身の生き方の指標というものを感じずにはいられないのです。
 
私の正しさで生きようとします。しかしその先には、正しいと主張し合う者によるぶつかり合いがあります。それが互いに一歩も譲られることが、また落としどころを見つけることが無ければ、その後に訪れるのは別離があり、分裂があり、さらなる衝突を見ることになる。だからこそ、私たちは究極的な公正というものを尋ね求め、その正しさによって生きることが本当に大切なのだと思わされます。
 
神がどのようにみえるか。そのことによっても随分隔たりがあることを思わされることも多々あります。神の平和という言葉をひとつ取っただけでも、好戦的に他の脅威を残滅することによって平和を勝ち取る神なのか、すべてを和解に導くべく自ら命を犠牲にしてまでも私たちに平和を提供する神なのか。それだけでも随分理解が違ってきます。
 
しかしどうなのでしょうか。私たちは個人の願望を神の思いにすり替えてはいないだろうか。そんなことも思わされるのです。神がこうであるに違いないと絶対化する態度。そこには常に軌道修正がともない、私たちの凝り固まった思いがあるのならば、神に解きほぐしてもらう必要があるのだと自戒を込めて思わされるのです。そのなかで、神の公正さが私を光とするという神の約束が、今日の私にどのように照り輝くのだろうか。そんなことをじっくりと黙想しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思わされました。
 
次回の黙想は、23日(日)にお届けします。どうぞ今週の残された日々に、神の守りと祝福が豊かにありますように。心よりお祈りいたします。

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