詩編27章10節
父と母が私を見捨てようとも
主は私を迎え入れてくださいます。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章14節
そして、私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあったのに、あなたがたは蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「受け入れ、迎え入れる」であると私は受け止めました。具体的には、究極的に両手を広げて私たちを迎え入れてくださる神がおられるということ、私たちを迎え入れてくださる神によって受け入れられる私たちもまた、神の思いを胸にして人を迎え入れることができるのだということを、今日のふたつの聖句は私たちに伝えているような気がしてなりません。
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一片は「父と母が私を見捨てようとも」とあります。私たちにとって親の存在というものがいかに大切なものであるかということは、私たちの誰もが知っていることです。しかし、そうは思っても実際に「親に見捨てられる経験」ということが世の中には実際にあるわけであって、理想と現実のあいだに大きな隔たりが存在することも、私たちは自他の経験のなかで知らされているのだと思います。
私は「親に捨てられた」経験があります。幼い頃父親から捨てられて、最近母親から縁を切られました。その詳しい事情はここでは割愛しますが、最終的に神の御心に立つということは、さまざまな人間の感情に波風を立たせ、時には嵐と暴風雨を巻き起こすような負の力というものを生み出すことを実感させられています。
しかし、そのような感情の先には、やはり両手を広げて向か入れてくださる神がおられる。本日の詩編の言葉は、そのことを心から感じさせてくれる大きな慰めと励ましというものがあることをつくづく思わされるのです。父と母が私を捨てようとも、主は私を迎え入れてくださる。神の御心というものに立って誠実に生きようとするならば、神は必ず平安と祝福を私に、そして私のみならず私の向こうにあるすべての人たちにも及ばせてくださることを信じたいのです。
人は誰でも、つまづきとなる何かを持っています。差し障りという言葉でも言い換えることのできるものかもしれません。その差し障りというものが、人間にさまざまな負の感情を生み出す元になるのかもしれません。しかし、人間を簡単につまづかせるかもしれないそのような差し障りですら、私たちの神ははねのけて私たちを迎え入れてくださる。ここにこそ、私たちの生き方のモデルというものが込められているような気がしてならないのです。
私たちは簡単につまづくし、そのつまづきというものが、なかなか簡単に自分自身のうちから取り除けないことをよく知っています。しかし、そんな私たちを大切に思ってくださっている神の親心というものに励まされながら、少しでも神が与える平安の道を歩むことができたら、どんなに幸せだろうと思うのです。この幸いのために、今日という一日が用いられることに感謝したい。そんなことを思わされました。
今週も最終日を迎えました。この一日が神の与えてくださる祝福によって平安のうちに過ごすことができますように。心からお祈りします。
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