エズラ記3章11節
主の神殿の基礎が据えられたことで、すべての民は主を賛美して大きな喜びの叫びを上げた。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章11節
イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が思ったテーマは「私たちの土台」です。私たちは何を土台として生きていくことができるのか。これがいわゆるキリスト教に属するものならば「神を土台として生きる」と答えることができますし、そのことに同意される方も多くおられることと思います。
では、神を土台として生きるというのは、具体的に何を表しているのでしょうか。私たちは礼拝で神の言葉の取り次ぎに触れることもあるでしょうし、このような聖書黙想を通して、神の言葉に向き合う機会が与えられることもあるでしょう。私たちはそれぞれが自由に神をイメージすることが出来るかと思いますが、そのイメージというものが、神が本当に私たちに現わしているイメージかどうかということを、常に自問することは必要な営みであると私は思います。
これは教会で働く者として常に感じ続け、また感じ続けたいと思っていることですが、私たちが神の持つ価値観であると思いながら、それが本当に神が思っていることかどうか、場合によってはその根拠すら乏しいと思えるようなことが、実はたくさんあるのではないかと思えてなりません。実は神を土台にしていると言いつつも、その実は私の生い立ちや慣習、私の感情や好き好みを根拠にして、そのうえで自分自身の信仰生活というものを営んでいるということが往々にしてあると思うのです。
だから、私たちには明確な土台を自分の心の中に据えることの大切さを想わされます。私たちの土台にあるもの、それは神御自身に他ならないですし、神御自身が語られる言葉に込められた神御自身の価値観を私たちは土台として生きることこそ、今日の旧約聖書の言葉にもある「人々の大きな喜び」へと導かれることを心の底から希望して、神の言葉に聴くということを大切にしたいと願うのです。
それは、教会の時代になって使徒パウロによって語られた言葉へ継承していきます。パウロは「すでに据えられたイエス・キリストという土台」を、手紙に書きしたためました。手紙の宛先であるコリント教会では、さまざまな価値観の衝突ゆえに人の憎しみというものが教会を支配していました。だから、コリント教会にはしっかりとした土台のうえに立つ必要があったのです。
コリント教会の人たちがイエス・キリストを意識していなかったわけでは決してありませんでした。みんなキリストを心に置いて生きていたことに間違いありませんでした。しかし、それは彼らにとって「土台」とはなり得なかった。それを邪魔したのは「自分自身の価値観」だったのです。徹底的に神の価値観、キリストが与える価値観というものを聖書の言葉に丹念に聴くことによって、言葉尻に縛られることなく、自分自身の価値観に支配されることなく、神の思いを尋ねて生きることにこそいただける幸いというものを胸に生きて欲しい。そんな使徒パウロの思いが手紙に込められたのでした。
この思いは、今日神とともに生きることのできる私たちにも継承されている。だからこそ、今日も神の言葉に聴き続け、自らの土台とされていることの自覚というものを確認していきたい。そのように願わされました。皆さんひとりひとりの土台にも、キリストの価値観がしっかりと据えてくださいますように。今日の主にある守りと幸いを心からお祈りします。
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