10/06/2024

2024.6.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記10章3節
モーセとアロンはファラオのもとを訪れ、彼に言った。「主はこう言われる。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章1節
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も新しい週日の日々が始まりました。皆さんのウィークデイの日々に、神である主の守りと祝福がともにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「神による解放」であると私は受け止めました。そのことを黙想を通して深めてみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトでの奴隷状態に苦痛を感じていたヘブライ人に、神はモーセを通して人々を束縛から解放されることを宣言します。エジプト王に通じることのできるモーセ(彼は王族として育てられたヘブライ人)でしたから、兄であるアロンをともなって、王に神の思いを伝えます。自分の民をエジプトから去らせると。
 
ただ、この時エジプト王は、モーセとアロンを通して語られた主の言葉を聞くのは、これが初めてではありませんでした。聞けば聞くほど、王は心をかたくなにしてヘブライ人を解放することを拒みました。それに対して、神はご自分の力をもってエジプトに災いを降りかからせます。しかし、災いが起きれば起きるほど、エジプト王は心をかたくなにしたのでした。
 
私たち人間の悲しい性がここにあると思いました。自分にとって不利益なことがあれば、私たちは心を素直にして向き合うことができない。心が意固地になってさらに人を困らせようとする。それを行使している当人は正義のためにそれを成そうとしているのかもしれないが、それは傷つきそうな己のプライドを誇示しているしか過ぎない。実にファラオの行っていることは、私たち人間のしばしばみられる行動に共通するのではないか。自戒を込めつつ、そのように思えてならないのです。
 
しかし、そのような人間のプライドなど、神の御前には何の効力も発さない。神はただただご自分の民を守るために、ご自分の御心というものを明らかにされました。エジプトから去らせ、神が約束された土地にご自分の民を導こうとされる。それが自由と解放への道であるということなのだと。人々にとっての自由と解放とは、神の言葉によって神とともに歩むことで実現可能とする自由と解放なのです。
 
今日の新約聖書の言葉で告げられている「奴隷の軛」とは何なのだろうか。自由と解放をキリストを通して与えられた神が、その対極にあるものとして「奴隷の軛」という表現を私たちにパウロを通して与えられました。軛(くびき)とは、本来家畜を縛り付けるための農具です。自分の思い通りにならないひとつの象徴とも言えるでしょう。
 
この「自分の思い通りにならないこと」と「私たちのプライド」というもののあいだにこそ、それに束縛されてしまう私があるのだと思うのです。ファラオしかり、そして私たちしかりなのです。私たちに神からの自由と解放を妨げるものがあるならば、その最大たるものこそ、自分自身を縛り付ける私自身のプライドなのだと。そこから解放されるために、神のなされたことに想いを寄せる一日でありたいと心から願わされました。
 
自分自身を守ることは大切です。しかし、本当に守られなければならないことは、神との関係性によってこそ浮き彫りにされてくるのだと。だからこそ、神の思いに込められた自由と解放というものを、誠実に受け取る者でありたいと思います。決してつまらないプライドの誇示につながらないような誠実さを。今日も主にあって素敵ないちにちでありますように。お祈りします。

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