詩編8編7節
(すよ、あなたは)御手の業を治めさせ
あらゆるものをその足元に置かれた。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一6章12節
私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されているふたつの聖句に共通するテーマ、それは「支配されるということ」であると私は受け止めました。そのことを黙想したいと思います。
支配という言葉を、この一年たびたび用いてまいりました。私がカルトに関する書籍を出版してちょうど一年になろうとしていますが、カルトの定義を「ゆがんだ支配構造」であるということを提唱して以来、では支配とはいったいなんだろうかということを、日々考えて今日に至っています。支配という言葉にゆがみのない意味というものをとらえるためにです。
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一片は、ダビデ王によって歌われた賛美ですが、森羅万象を創造された神の支配について言及しているものです。御手の業を「治めさせ」とありますが、これこそ「支配させ」と置き換えることのできる言葉です。神は私たちを含むご自分の創造物が、楽園という環境のなかで神との深いつながりによって幸福に生きるということが、神のたっての願いであるということです。
ゆえに、神が私たちに及ぼうとしている支配というものが、私たちを束縛し、有無を言わせないほどに自由を奪い取るような支配ではないということは一目瞭然です。この神の姿勢に基づいて、私たちは神の御手によってなされるすべての御業のもとに私たちが命与えられ、生かされているというのだというダビデは歌いました。
このダビデの思いを踏まえて今日の新約聖書の言葉を読みますと、とても理解できます。すべてのことが許されているけれど、すべてが許されているわけではない。このパウロが手紙にしたためたことと、支配という言葉が抜き差しならぬ関係にあります。これを支配という言葉に置き換えて考えてみるならば、「私たちにはすべての支配が許されている。しかし、すべての支配が許されているわけではない」とも言えるのではないかと思います。
私たちは自分の意思によって、自分自身に与えられた自由を行使することが許されていますが、それがゆがんだ支配を生み出し、結果として自分の向こう側にある人々を苦しめる結果になってしまうとすれば、それはパウロが意図して書いたこととはずれてしまうのだと私は思います。パウロは知っていました。私は誰からも支配を受けない。受ける必要はない。なぜならば、神によるゆがみのない支配を受けているのだから、ということをです。
人を幸福へと導く神の支配を私たちが受けていることの幸いというものを柱にして、それに対する人間によるゆがんだ支配というものを考えつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと願わされました。皆さんの一日にも、神様の平和に満ちあふれた支配がともに、豊かにありますように。お祈りします。
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