30/06/2024

2024.6.30(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書11章19節
私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授ける。彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。先週の日々で起きた数々のことを振り返りながら、良かったことについては引き続き、悪いと感じたことは引きずり続けることなく、神が与えてくださる道を闊歩して歩みたいと心から願わされます。闊歩できるのは神が常にともなってくださるのだと思うからこそです。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに私の心のうちにそれを思わせるものでした。旧約聖書・エゼキエル書に記された「石の心・肉の心」は、私たちのうちに神が与えてくださる「霊」によって、私たちの心の状態をも変えられていくことを如実に知らせるものであると私は受け止めました。私たちは神がいてもそれに頼ることなく、また気づけなくさせてしまうような環境に置かれると、どんどん疲れ果ててしまうものです。物事をマイナスにとらえてしまい、どんどん消極的になり恐怖が自分自身を取り囲んで苛ませる。そんな時に「石の心」にさせられているのだと、私は自分のことを振り返っても感じさせられるのです。
 
神の霊とは明らかに聖霊のことを指します。聖霊は物質のように目に見えるものではありませんが、私たちに生きる力を与えるものであることに間違いありません。内側から起きるこの力を神が与えてくださることで、私たちはあらゆる物事に対して消極的にならず、卑屈になることもなく、あくまでしなやかな肉体のように柔軟な物事のとらえ方をもって与えられた道を歩めるように、神が助けてくださる。ここに聖霊が私たちに与える「希望と真実」があるのだと私は受け止め続けたいですし、実際にそんな肉の心を感じたときの喜びは、計り知れないものがあるのです。
 
不安や恐怖が募ると、人は臆病になります。臆病になればおのずと攻撃的になるというのは、心理学の世界でも実証されていることです。一見すると臆病と攻撃性というのは真逆のような感覚があるのですが、私自身、実際に自分の言動や感情を振り返れば、なるほどその通りだと思うのです。特に人間関係でそのようなことが起こる時に、私たちは臆病に取り込まれて前に進むことができなくなる。これこそ「神の霊の不在状態」なのかもしれません。知らず知らずのうちに、神の霊が働かれる力に希望を託そうとしない、拒絶してしまう自分自身があるのです。
 
今日の新約聖書であるテモテへの手紙の一節は、神の霊は臆病なんかでなく、神の持たれる力や愛、思慮深というものを提供します。つまり、臆病になるがゆえに自己保身に走り、牙を向けて相手に吠え掛かるようなことではなく、神の愛や力、その深い配慮ゆえに人と人とのあいだに訪れるのは平安なのだと伝えています。だから、聖霊の存在がいかに私たちを活かすのに、無くてはならないものなのかを、改めて実感させられるのです。
 
今日、新たな一週間の始まりとして、世界じゅうで持たれる主の日の祝祭、礼拝や集会の一切に、神がご自身の霊を送られることによって、私たちのあいだに平和が豊かにありますように。心よりお祈りいたします。

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