09/06/2024

2024.6.9(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記31章4節
神は私の道を見つめ
私の歩みのすべてを数えていないのだろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章6節
五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間の朝を迎えました。今日の主の日、世界中で行われる集会や礼拝の一切に、神からの豊かな祝福がともにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して感じたこと。それは「神は私たちの細部までご存知であり見守っておられる」と私は受け止めました。
 
私たちは、神から見捨てられたと思えたような経験をしたことはないでしょうか。ここぞの時に神からの助けをいただきたいと思っても、なかなか自分の思うように神が助けの手を差し伸べてくれないのです。本当に神がおられるならば、その神を心から信じているのに、どうして神様、あなたは振り向いてくれないのですか。そんな感じで愚痴りたくなるのです。少なくとも私はこのような経験を何度もしているように思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、まさに苦難の渦中にあった義人ヨブの訴えです。義人というのは、神がおられるということを人生の土台にして、神とともに歩んできた人生の持ち主という意味での義人です。神がともにおられることなど、彼にとっては当たり前のことだったのです。しかし、そんなヨブでさえ、神が本当におられるのだろうかと疑いたくなるような出来事が確かにあったのです。ヨブとて市井のひとりに過ぎませんでした。ここに、私たち人間の真実というものがあるのだと私は思います。
 
しかし、ここにこそ神の真実というものもあるのであって、神が本当に人に対して助けの手を差し伸べられるのは、神がベストと思えたときなのだということを、私は心から信じたいのです。神がベストと思われる時と、私たちがベストと思える時のあいだには、時にいささかのズレというものがあるのだと、私はそう受け止めたいのです。そのギャップが私たちを苦しませ、痛みを生じさせるのだと。そんな風に考えたいのです。
 
イエスは言われました。どんなに小さい小鳥でも、神はその一羽すら忘れることはないのだと。小鳥を取るに足らないものととらえるのは、私たちの固定観念かもしれません。しかし、神の世界は違う。神にとって必要でない存在など無いのであって、どんなに小さくとも忘れることなく、その小さな存在が生きることができるために、ベストタイミングをもって見なしてくださる。ここに神の魅力というものがあるのだと、私は今日の旧約聖書の言葉にあわせながら、メッセージとして聴き取り、受け取りたいと思いました。
 
一羽の雀こそこの私なのだ。この雀を養ってくださる神に感謝しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日に、神からの守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

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