02/06/2024

2024.6.2(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編23編6節
命あるかぎり
恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう
日の続くかぎり。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録2章46~47節
(信じた者たちは)毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってきました。そして主の日が私たちのもとに訪れました。世界中で行われる集会、そして礼拝のすべてに、教会のかしらにして救い主であるイエス・キリストの喜びがあふれますように。祈りつつ、私がお仕えする教会でもそのようなスタートを切ることができればと心から願うばかりです。
 
今日のローズンゲンを通して私たちに与えられたふたつの聖句は、まさに教会のあるべき、教会がそうあって欲しいと願う姿が描かれています。それは決して、理想でもなければ、努力目標でもありません。実際に2000年前に聖霊降臨を受けたイエス・キリストの弟子たちが「実際に」経験したことでした。信仰の実体であり根拠であるイエスが私たち一人ひとりの心身に、聖霊なる神の御臨在とともに染み込んでいったとき、イエスが人々に与えられた価値観によって人間が生きるとこのようになるのだという実録が収められているのです。
 
この信徒言行録に描かれている人々は、現代に生きる私たちと本質的に何ら変わりはありません。根本的な罪を負いつつも、イエスによる救いによって命を再生を経験し、聖霊降臨によって新たな人生が与えられたという点においては、私たちと全く変わりはありません。ですから、2000年前に人々が経験したことは「昔の話だから」「そんなの所詮理想論だよ」と片付けてしまうことのできないものだと私は思います。
 
また、これは私たちの努力「だけ」でなされるものでも決してありません。このような信仰者の姿が現実のものとなるためには、もちろん私たちの自覚というものが問われ、常にそのような姿に抗おうとする自我というものと対峙する必要があるでしょう。しかし、そのような自分自身のありように気付きと自覚を与え、自らが変革させられる中心にあるものは、信仰の実体であり根拠であるイエスが私たちのために送ってくださった「聖霊」の助けと励まし無しにはそうはならないのです。2000年前の信仰者たちには、聖霊の助けというものが自分たちを活かしているのだという、十分な自己認識というものがあったに違いないのです。
 
人から好意を寄せられるために、小手技をもってあらゆる工夫を凝らすのではなく、聖霊によって喜びを得た人の集まるところには、自然に人間が憧れるような行為があふれたに過ぎないのだと私は思います。ですから、私たちに期待されていることがあるとすれば、聖霊の導きと助けが自分自身をキリストにおいて生かしてくださることを信じつつ、目の前に与えられた務めというものに、ただただ誠実であることなのだと。今日の聖句から得た黙想です。
 
どうか今日の一日も、そのような喜びに満たされたものでありますように。皆さんの一日のためにお祈りします。

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