イザヤ書58章1節
喉をからして叫べ。抑えてはならない。
角笛のように、あなたの声を上げよ。
私の民にその背きの罪を
ヤコブの家にその罪を告げよ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書4章17節
その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
昨日のローズンゲン黙想ですが、ブログアップの時点でうまくくぁっぷロードをすることが出来ず、結局黙想をお届けすることができませんでした。楽しみにしてくださっている皆さまへは、まことに申し訳ありませんでした。気を取り直して、今日も御言葉から黙想するひと時を持ちたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想ったこと。私たちがどう頑張っても無理なことを、救い主イエスは私たちのためになしてくださったのだなあということでした。そのことを今日は「悔い改め」ということをキーワードにして、黙想してみたいと思います。
悔い改めとは何か。どうしても「懺悔」というイメージが強すぎて、悔い改めが指し示そうとしている真意というものを捉えにくくさせてしまっているのではないだろうかと思うことがあります。もちろん懺悔は大切なことだと思います。しかし、懺悔が自虐的になり過ぎてしまうがために、主が与えてくださるさまざまな良いものすら受け取れなくなってしまうような自己肯定感の欠如というものが、私たちのなかで時に生じることはないだろうかと思うのです。
悔い改めの先にあることとは、神が私たちの歩みをともに担い、私たちの導き手になってくださることへの「気づき」であると私は考えています。この気づきに至る方向転換、思い直しこそ、悔い改めることの意味です。希望があるからこそ、私たちは悔い改めというものを大切にできるのだと思うのです。
今日の旧約聖書の言葉にあるのは、神が預言者に対して告げるべき「罪の悔い改め」についてです。そのために喉を枯らし、角笛を吹きわたらせるように、大胆に告げよと神は預言者に告げられました。このような聖句に基づいて、今日も教会や集会、伝道者が罪の悔い改めというものを告げ続けているのですが、私が思うのは、その「伝え方」というものによっては、かえって人を委縮させ、かたくなにさせて、神と共に歩む幸いというイメージすら呼び起こさせない空気というものをつくりあげてしまうのではないかと思えてならないのです。そのような手法でゆがんだ支配をつくりあげようとするカルト的なアプローチというものは、意外に多いように感じているのです。
今日の新約聖書の言葉が物語っているのは、罪の悔い改めを告げるのは私たちの「主体」ではなく、私たちを幸いへと導いてくださる究極の羊飼いでるイエス・キリスト御自身であるということを、イエスがその生涯のなかで実践されたということへの「気づき」を促しているということなのだと私は思ったのです。私たちが悔い改めるというのは、あくまでイエスが共におられる安心感から、初めて生じるものなのだということを私は大切にしたい。そう思ったのです。
今日の一日が、皆さんにとってイエスがともにいてくださることへの幸いに包まれたものでありますように。お祈りします。
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