ホセア書10章12節
正義のために進んで種を蒔き、慈しみの実を刈り入れよ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章16~17節、19~20節
ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、自分の魂にこう言った。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚か者よ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された聖句のなかで、新約聖書・ルカによる福音書12章に描かれているのは「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれるイエスによって語られたものです。その中でイエスは「そして、群衆に向かって言われた。『あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。』」ということを人々に告げ、それからある金持ちのたとえ話をし始めました。
貪欲とは何でしょうか。国語辞典によると「自己の欲するものに執着して飽くことを知らないこと。非常に欲のふかいこと」とあります。仏教の世界では三毒・十悪のひとつとされており、仏教文化が多分に影響された日本において、貪欲を良く見る向きがないことは私たちも知るところです。
では、私たちはこの貪欲という言葉をどのように見ることができるのでしょうか。このたとえ話でも語られるように、愚かな金持ちは豊作によってこの後何年にもわたって遊んで暮らせるような財産を手にしたわけですが、私が思うに、大切なことは莫大な財産を得ることそのものが貪欲なのでなく、その財産によって自らの人生を楽しむことも貪欲なのでなく、この財の源がどこにあるのかという自覚であると思うのです。
その源とは、私たちに豊かさというものを与える神御自身です。私たちはあたかも自分で汗水たらして働いたものは、自分の努力の成果であると思うことがあります。そのことは実際的に間違いのないことと思います。しかし、聖書を通して神が私たちに伝え続けているのは、私たちに豊かさを与えるために神が生きて働いてくださった結果、私たちが神に生かされていることを心の礎にすることが幸いへの道であるということです。
ですから、イエスがこのたとえ話を通して、愚かな金持ちのどこが愚かなのかということについては、自分が豊かになっていることの根拠に対するイメージの欠如を指して、貪欲の愚かさというものを知らせたかったのだと私は受け止めたいのです。
今日の旧約聖書であるホセア書の一節で言われている「正義」とは、私たちの努力の結果生み出されるものでは決してなく、神が正しい御方であるということが中心に立ち、明らかにされることであると私は受け止めたいと思います。この正しさがどういう方向に向かうかというと、私たちの世界という土壌に神の慈しみが蒔かれることである。この慈しみが私たちを豊かにするのだというのです。だからこそ、神の正義と慈しみに生きるために、私たち自身の心が神の正義によって耕されることを、この聖句は私たちに伝えているのだと思います。
一週間の旅路も今日が最終日。この日々、私がどのような耕し方をしたのだろうかをじっくりと振り返りながら、明日の主の日を迎えたいと思いました。皆さんの一日にも、心を正義をもって耕してくださる方の慈しみが、守りと祝福を充分に与えてくださいますように。お祈りします。
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