詩編98編1節
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章16節
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されているふたつの聖句のなかで、旧約聖書・詩編98編の一節には「奇しき業」という言葉が登場します。神が私たちに対して行われること、つまり「業」が「奇しき」ものであると言うのです。奇しきとはなんでしょうか。国語辞典には「不思議な。霊妙な」と記されています。私たち人間の想像を超えた、私たちでは到底図ることのできない出来事が、神によって実現されることを意味しています。この詩を歌った者は、私たちにとって信じられないことが神によってなされたたために「新しい歌を歌いましょう」と人々に勧めています。
私たちの現実がたとえ、神のなされる御業が遠く感じたとしても、だからこそ、そのことが私たちの眼前で実現されようとしているときに、それが実に不思議で霊妙なる神の御業として表れるのだと言うのです。それは、劇的に起きるスペクタクルのようなものではないかもしれません。非常に地味で私たちの前をかすかに通り過ぎてしまうような出来事、私たちが耳を澄まし、目を凝らさなければ見えない者であるかもしれません。しかし、それこそ「奇しき業」がなせることなのかもしれません。何しろ、私たち人間の常識では考えられないことが神によって起こされるのですから。
その奇しき神の業は、非常に目立たない、ひっそりとした形で私たちの前に現れたのです。それが神の言(ことば)としてお生まれになられたイエス・キリストに他なりません。神の言葉が目に見える形で現れたとき、それは簡単に見過ごしてしまうような赤子のかたちで私たちの前に現れました。それは人々が期待していたような王のかたちではありませんでした。しかし、目立たないところにこそ神の御業が豊かに現れたのです。それは、取るに足らない存在である私たち人間に対しても、神の御業が豊かに現れることの宣言と約束に相通じるものがあると私は思えてならないのです。
私たちが不思議と思えるほどに神は意外な形でご自分を現わしてくださり、しかしその姿かたちははかなく消えて去ってしまうものではなくて、私たちに喜びの歌を与えるような充実感を与えるものなのだと。今日のふたつの聖句から感じさせられたことでした。私はこの不思議さに囲まれながら、今日という一日を歩むことがまた許されている。送り出されようとしているのだと。だから、神が与えてくださる御業の道を、今日も喜びつつ期待を込めながら一歩、また一歩歩んでまいりたいと思います。
皆さんの新しい一日にも、奇しき神の御業が豊かに働きますように。心からお祈りします。
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