01/06/2024

2024.6.1(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上1章15節
私は主の前に自分の胸の内を注ぎ出していたのです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書7章38節
(女は)背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、ローズンゲンは毎日「断片的」な聖句を提示していますので、一見するとこのふたつの聖句にどのような関係性があるのだろうかと思わされることがあります。しかし、確かに今日の聖句は確かに関連性のあるものであると、私たちは知ることができます。そのあたりを踏まえながら、聖句をいただいてまいりたいと思います。
 
今日の新約聖書は「ある町に住む一人の罪深い女」が登場します。あえて罪深いと書いているところ、なぜ女性がそのように呼ばれるようになったのかは、それ以上の情報を提供することはありません。ただ、この女性を罪深い女とみなしているファリサイ派の人々が「素性でわかるはずなのに」と言っているところを見ると、外見だけで簡単に罪人と決めつけてしまえるような人物なのであったろうと推測できます。
 
この女性が香油を携えてイエスに寄り添い、自分の流した涙でイエスの足をぬぐい、接吻をして、香油を塗り始めました。なんともなまめかしい光景です。この行為をイエスは大いにほめ、最終的には女に対して「あなたの罪は赦された」と宣言されるのです。ですから、この話は女性の信仰というものを非常に好意的なかたちで見ることのできる物語として知られているのだと思います。
 
しかし、私は自分のこととしてそう思うのです。私はイエスのような対応をするのではなく、おそらくファリサイ派に近い反応というものを採ってしまうのではないだろうかと。見た目で罪人と判断できるような人が取ったエキセントリックともとれる行動。このことだけで一段低く見てしまいそうな自分自身の偽らざる姿というものを決して否定できないのです。何とも浅ましく、恥ずかしい話なのですが、これが人間の持つ非常に悲しい性なのかもしれません。
 
外見や固定観念だけで、人間をいとも簡単に判断しようとする態度こそ、いわゆる罪のなせるわざなのだと私は痛感させられます。神がその出来事に何を思われているか、そのイメージというものを探ることなく、自分自身で勝手に決めつけてしまうわけですから、神の所在なきところで物事が進んでしまうことこそ、罪の本質の何物でもないと私は感じたのです。
 
人が何と言おうとも、イエスはこの女性の内にある思いの本質というものを大切にされた。このことを私も大切にできるならば、どれだけ温かみのある世界が私たちを取り囲んでくれるだろうかと思ったのです。今日の旧約聖書に示された言葉も、ひとりの女性ハンナの苦痛が、神殿での神への祈りに動かされました。子が与えられない苦痛を胸に、ハンナは必死に神に祈りを傾け続けました。
 
この祈りの姿を、祭司エリは「酒でも酔っているんじゃないか」といぶかしく思います。そして酔いを覚ましなさいとハンナに語りかけたのでした。明らかにエリによる、見た目と思い込みだけで判断した事実誤認の出来事でした。そして、ハンナの苦痛を受け止めた神は、やがて彼女にひとりの男の子の命を授けました。後にイスラエル国民の指導者となるサムエルの誕生を、ハンナは神からの祝福として経験するに至ったのでした。
 
それが神の願われていることであるならば、神は必ずその思いの本質が光輝くように果たしてくださるのだ。だから私たちも、枝葉のどうでも良いことにこだわる思いから解放されて、今日の一日というものを歩んでいきたいのです。どうか今日という時が、そのことを実感できるひと時となりますように。皆さんの主にある守りと祝福を、心よりお祈りします。

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