申命記13章1節
私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書7章16~17節
私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものであるこの方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
私たちが聖書を読むときに、これらの言葉をどのように私たちは受け止めることが大切なのか。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、そのことを私たちに物語っていることを感じました。そのことを黙想してみたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉は、神がモーセを通してイスラエルの民たちに告げられた言葉であり、私の告げる言葉をすべて守り行いなさいという神のご命令です。神の言葉に従うということは、いつの時代にも神の民が大切にし続けてきたことです。完璧に守り従うことが出来るか否かではなく、守り従おうとする気持ちがあるかということが前提にあってこそ神の命令が生きてくるのだと私は思います。神は私たちの心を問われる方であるからです。
その際に、神は「付け加えたり減らしたりしてはならない」ということをモーセに告げられました。このひと言に、私は大変興味深いものを思いました。これをどのように解することができるか。文字通り、聖書の言葉に余計な解釈を加えず、そのまま受け入れればよいという考えもあるでしょう。しかし、神は目に見える行いよりもその動機や心をご覧になられる方であるということを考えれば、私たちは、その言葉に込められた神の思いや願いという本質を見据えたうえで、その本質に自分なりの欲求や願望、独り善がりな考えやえり好みというものを付け加えたり減らしたりすることがあってはならないということなのではないかと受け止めたいと思いました。
私たちが神の言葉に聴き従えないと思う時に、なぜそうなのかという「なぜ」を自分自身に問い続ける姿勢というものを大切にしたいのです。それが単なるわがままから来るものなのか、神の助けを得ようとせずままに自分自身の殻に閉じこもるがゆえに聴き従えない、いや聴き従おうという気持ちすら放棄してしまうようなことがあれば、私たちは神の助けというものに出会えないまま、ただ無為に時が過ぎてしまうかもしれません。それは大変もったいないことだと私は思ったりもしています。
神の御心に込められた本質にただ忠実だったイエスが、自分の言動が神からくるものなのか、それとも自分のオリジナルによるものなのか、神の御心を問い続けるならば分かることであると人々に伝えられました。それが今日の新約聖書に指し示された意味なのですが、イエスも神の言葉を機械的に文字面だけで読むのではなく、自分自身の願望で加除するわけでもなく、神の御心の本質に基づけば、それがどのような評価を受けようとも、それが神由来であることが分かるということを説かれました。
当時のイエスの言動は、神の名を冒涜した極めて身勝手なものであるという評価がありましたから、イエス自身の言動がいかに本質に基づいたものであり、神の言葉に聴従した究極のかたちであるかということが、分かる人には分かり、それが世界中に広がり、今日に私たちにも継承されているということなのだと私は受け止めたいと思ったのです。
神の本質に生きることの幸いというものをかみしめながら、今日の一日もまた歩むことができますように。皆さんの一日に、神様からの守りと祝福をお祈りします。
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