28/06/2024

2024.6.28(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編28編7節
主はわが力、わが盾。
私の心は主に信頼し
私は助けられ、心は喜び躍る。
私は歌を献げて主に感謝する。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章15節
だから、イエスを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「賛美」であると私は受け止めました。この言葉をキーワードに、黙想したいと思います。
 
なぜ賛美するのか、賛美することにはどういう意味があるのか、そのようなことをあれこれ論ずる以前に、それは神が私たちとともにおられることを大切にしようとする、私たちの心からあふれ出る表現方法であることは、すでに賛美をした経験があるならば、言わずもがなでしょう。私たちは歌うにしても聴くにしても観るにしても、賛美を通して神を知るという営みを大切にしているのです。
 
賛美を通して、私たちは神の力、神からの深い慰め、豊かな信頼や大いなる助けを知り、それを経験します。それが神の私たちに対する喜びを受け取り、私たちもまたその喜びを神にお返しすることができる。そのお返しこそ、私たちが神に感謝とともにささげる賛美なのでしょう。今日の旧約聖書の詩編で、ダビデ王がそのように神に向かって賛美をささげていることを私たちは理解し、私たちもまたダビデのように、賛美を神にささげることができるのです。
 
ただ、賛美はそのような喜びを私たちに提供する一方で、賛美に示された言葉や音楽性というものをめぐって、しばしば「争いの種」になることもまた事実です。神からの助けや力を感じるための賛美なのに、それが争いのもとなってしまうのであれば、本当に残念なことです。そして、その争いはしばしば、それを受け取り、表現する私たちの側の「感情」にあると私は考えています。賛美を愛しているからこそ、そこにかける情熱も強くなればこだわりも強くなるのだと私は思います。
 
私たちが「歌い慣れていない」賛美のジャンルや賛美歌集に対するアレルギーのような反応に時々遭遇することがあります。そして、そのアレルギーのような違和感に対して、時にはストレートに違和感を表現することがあれば、理論武装してその思いを表すこともあるでしょう。
 
しかし、私たちはそういう時こそ自分のうちに起こる違和感というものが「どこから来るのか」ということを、自己省察する営みというものが求められるのだと思います。そのような自己吟味を通して、賛美の指し示す本質というものにしっかりと眼を向けることで、神に賛美のいけにえをささげるという本来の目的を是非大切にしたいと私は思うのです。
 
新しい賛美歌を礼拝で導入しようとしました。それにあたって丁寧なプロセスを踏むことで、新しい、しかし耳慣れず歌えない賛美を、私たちの喜びの表現として受け取れるようになったという経験を、私が仕えている教会でする機会をいただきました。賛美というものは、私たちの心からの思いや感情と相まって、最終的にこだわりやわだかまりを造ることなく、神の喜びに応えることができる。だからこそ、賛美は本当に素晴らしいものなのだと思います。
 
今日もことあるごとに、神に向かって賛美をささげることのできる一日でありますように。心から祈ります。

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