11/06/2024

2024.6.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言12章20節
平和のための助言には喜びがある。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章18節
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どちらも「平和」をテーマとして語られた言葉です。平和という言葉に生きる者の幸いについての格言が語られ、手紙を通して人々に勧められています。
 
私は昨晩、そのことについてずっと思いを巡らせていました。平和であることの幸いは誰もが知っていることです。しかし、平和をつくることの何と難しいことよ。そう思ったのです。そもそも平和というものは「関係性」のなかでこそ成り立つものなのですが、人間と人間とのあいだに、そして神と人間とのあいだに、私たちは平和をつくりあげることの難しさというものを痛感しているのではないだろうか。少なくとも私はそのような困難を覚えています。
 
平和をつくり出すのには、ものすごいエネルギーを要します。どちらか一方が平和を心から望んだとしても、相手側が必ずしも私の望むような平和を望んでくれるわけではない。お互いに平和を望んでいるのに、その平和が一致しないとき、また相手の平和観というものを尊重することができないときに、底に衝突の種を産み、その種を用いて優劣を競ったり、相手を刺激することで、その刺激に耐えられないままにいさかいに発展する。使わなくても良いエネルギーを徒労するために費やすなんていうことは、日常茶飯事の出来事です。
 
無駄骨を感じるようなエネルギーを垂れ流してしまうくらいならば、互いの平和のために労力を惜しみなく用いる者でありたい。そう思えてなりません。では、そのエネルギーとはいったい何かという話なのです。私は自分自身のエネルギーとされる体力や気力、知力や性引力というものの源というものに、是非目を注ぎたいと思うのです。その源とは、神の注がれるエネルギーであり、そのエネルギーこそ私たちを平和へ導く聖霊の助けに他ならないと私はとらえたいのです。
 
平和を造る者はすでに祝福されている。なぜなら、あなたがたは神の子と呼ばれているからである」(マタイによる福音書5章8節。私訳)
 
イエスによって語られた「8つの祝福」のなかで、平和を造る者と、神の子とされているというふたつの事実が抜き差しならぬ関係にあることを知らされます。つまり、神の子とされていることの深い認識が、私たちをピースメイカーとして整え、互いに神からの祝福をもって生きることが出来る喜びに包まれる。そのためには、聖霊が私たちの思考感情を豊かに包み込むことで、私たちの平和をつくりあげる原動力であることを、私たちが平和のうちに感じ取るところにこそ、真の幸いというものがあるのだと受け止めたいのです。どんなに歯を食いしばって己のエネルギーを使っても、それだけでは平和を造ることはできないということを、私は心から思いたいのです。
 
平和に逆行する力に触れることは疲れますし、もしかしたら人を疲れさせようとしている力を振りまいているかもしれない。そんな自己省察を今日の聖書の言葉を通してしてみたいと思わされました。すべての人と平和に過ごしなさいという聖書の言葉が、今の私に何を意味するのだろうか。好戦的にならず、しかし物事をうやむやにするのでもなく、神が望んでおられる平和を希求する一日でありますように。皆さんの一日にも、神の与えてくださる平和がともに、豊かにありますように。お祈りします。

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