16/06/2024

2024.6.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編104編27~28節
主よ、
その時に応じてあなたが食べ物を与えるのを
待っている。
あなたが与えると、彼らは拾い集め
御手を開くと、彼らは良いもので満ち足りる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章35節
私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。世界中で行われる主の日の礼拝、集会のすべてに、神による祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。
 
さて、礼拝や集会(それは日曜日だけとは限らない)が行われるたびに、神がそれら礼拝を通して、私たちに何を与えようとされておられるのか。礼拝を司る者としていつも考えるようにしています。何を当たり前のことをと思われる方もおられるかもしれません。しかし。当たり前だと思っていた者が決して当たり前でないのだということを、私たちはコロナパンデミックの数年間で改めて実感したのではないでしょうか。それは、礼拝についても同じことが言えるのではないかと思うのです。
 
礼拝は対面であるべきか、それともオンラインで済ませられるものなのか。そんな話題がここ数年のあいだに出ています。結論から言えば、私は二者択一で考えられる話題ではないと思っています。対面には対面の良さがあり、オンラインにはこれまで対面では考えることのできなかった新たな可能性というものを感じているからです。どちらにも良い面があるのであって、その良い面をいかに私たちは認識することができるかということが大切なのだと思っています。
 
だからこそ、対面であろうがオンラインであろうが、私たちが礼拝で本当に大切にしなければならないことがある。それが、今日のローズンゲンに示された聖句にもあるように、神が私たちに必要な「糧(かて)」を、私たちのために与えてくださるという事実を、私たちがいかに「自分にとって無くてはならないもの」として受け取っているだろうかという、私たちの認識こそ、私たちが常に確認し、自分自身が確かめ続けるべき大切なことなのだと思えてならないのです。
 
礼拝は「聖書の良い話を聞く会」では決してなく、もちろんそれも大切ですが、神に祈り、賛美をささげ、そのことを分かち合い、個人にとどまらず集められたひとりひとりが、神の喜びを共有できる無くてならない機会に他なりません。対面でもオンラインでも、そのために生きて働いておられ、糧を与え続けられる神がともにおられる。だからこそ、私たちはその神の喜びというものに心を寄せられるような礼拝こそ、今日のローズンゲンの言葉に呼応した礼拝の在り方を確認することになるのではないだろうか。そんな気がしてならないのです。
 
そんな思いとともに、今日の礼拝が祝福にあふれることを祈りつつ、礼拝に向かいたいと思います。私事、今日は朝夕の宮城野教会の礼拝に加え、午後は無牧教会の礼拝説教も担当します。礼拝で皆さんにお会いできるのが本当に楽しみです。では、素敵な日曜日を!

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