コヘレトの言葉12章1節
若き日に、あなたの造り主を心に刻め。
災いの日々がやって来て
「私には喜びがない」と言うよわいに
近づかないうちに。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章18~19節
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。だから、もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された言葉は、とても慰められるものであるとともに、私が他者に対してどのような態度を抱くべきかを思わせられるものでした。そのことを書きつづりたいと思います。
今日の旧約聖書であるコヘレトの言葉の一片は、とても有名なものであると思います。「若い日にあなたの造り主を覚えよ」というものですが、新しい聖書では「覚える」が「心に刻む」という表現になっていることに、より具体的なイメージを抱くことができます。
何を心に刻むのでしょうか。コヘレトの言葉は、年を重ねてからいろいろなことで後悔しないようにという思いで、若い日に神がともにおられることの幸いというものを味わえと語っています。私はここから、また今日の新約聖書の言葉と相まって、「若いときにこそ、たくさん失敗をして生きろ」ということなのかなと受け止めました。
今日の新約聖書の言葉は、あの放蕩息子が自分の放蕩三昧の結果、ある意味人生の「しくじり」を自覚したときに、父のもとに帰ろうと決意するシーンです。自分がいかにどうしようもない人間か。それは自分を見つめた結果として気づかされたことでした。そのような自分自身に対する謙虚な姿勢が、父親の前で奴隷として生きても良いという思いへと導かれたのでしょう。これこそ、父を「心に刻む」生き方であり、コヘレトの言葉に記された「造り主を心に刻む」ことに相通じていくのだと私は思います。
そこで、私は思うのです。私自身がそうだからなのかもしれませんが、若い時に経験した数々の失敗を通して、神について考え、神をより深く感じ、神を心に刻んで生きることが、いかに幸いなことなのだろうかと。だからこそ、放蕩息子を両手を広げて迎え入れた父のように、神は私たちの失敗によって父が私たちのご自分が敷いてくださった道を歩むことができるようにしてくださる姿に、自分自身もかくあれかしと思ったのです。
若さゆえに失敗することがある。鼻っ柱強く、鼻息荒く、周囲の放つ苦々しさにも傍若無人に振舞った結果失敗を味わうこともあるわけですが、そんな時に周囲にいる私も含めてどのような態度を取ることが大切なのかを考えることがあります。そんな時に、失敗をあげつらっては非難を重ね、その人が失敗から二度と立ち上がれないようにすることが道なのか、それとも、本人が失敗を通して神を心に刻めるように見守り続けるのか、私は後者を取ることこそ、今日の聖書の言葉に自分を合わせた生き方なのだろうと、改めて思わされたのです。
そんな思いを胸に刻みつつ、今日の一日を歩むことができるように。そして、神の示される平和が私たちの心に感じとることのできるような一日でありますように。お祈りします。
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