04/06/2024

2024.6.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記33章14節
主は言われた。「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章9節
したがって、安息日の休みは、神の民にまだ残されています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「安息」です。安息とは「安らかに休むこと」(広辞苑)であり、実際に今日の旧約聖書・出エジプト記で日本語に訳されている「安息」も、「休み」を意味する原語(ヘブライ語)が用いられています。つまり、神は私たちに対して、心に安らぎを得るために休息を与えてくださるということを意味しています。
 
では、神はどのような時に私たちに安息を与えてくださるのか。今日の聖書の言葉から考えてみたいと思いました。この時のモーセの心境というものに、私は心が寄せることができると思いました。ときのイスラエルの民たちは、いわゆる「金の子牛事件」によって、神から大きな怒りを買いました。その後に、神は再びイスラエルの民を約束の地へと導くために出発を命じます。
 
金の子牛事件は、あてのない旅をさまよい歩かなければならないイスラエルの民にとって、もっと安定を求めるための行動でした。農耕と豊穣の象徴である牛を拝むことによって、遊牧よりも定住を彼らは求めました。つまり、神の導きを放棄して生きようとしたイスラエルの民たちの決断であったのです。
 
つまり、彼らは自分たちの方法で「安息」を探し求め、そこにすがろうとしました。しかし、それは自分たちの休息に神を排除し、関わらせないということでもありました。そのように、自分たちの欲求に身を任せて神を簡単にないがしろにしようとする民を、この後も導き続けなければならないリーダーとしてのモーセの不安は、ただならぬものがあったのではないかと私は思うのです。

しかし、そんなモーセに神が応えられたのは「私があなたを安息へ導く」というひと言でした。不安を覚える時にこそ、安息の主体はどこにあるのかということを、神はモーセへ気づかせようとしました。だから、あなたは安心して歩みなさい。そんな神の器の大きさがモーセの心に響き渡る一瞬がここにあったように私は思わされました。安息とは自分自身で創生し、自分好みの休みを貫くことではなく、究極的には神が私たちの必要をすべてご存知なうえで、私たちの命を活かすために適切に与えられるものである。私はそのように受け止めたいのです。
 
だからこそ、安息に導かれる私たちの神は、安息にいたるまて共に歩んでくださる方なのだと、今日の聖書の言葉は明らかにしています。今日も働かなければならないことがたくさんありますが、そんななかでも神は私たちの心に安息が芽生えるべくともに働いてくださることを胸にしつつ、希望をもって歩んでいきたいと願わされました。
 
皆さんの一日にも、安息の幸いがともにありますように。お祈りします。

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