詩編22編23節
私は兄弟たちにあなたの名を語り伝えよう。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙1章11節
きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
19日よりお休みをいただいていたローズンゲン黙想を、今日から再開します。昨日までの勧告出張を無事に終えることができました。皆さんが祈ってくださったことを、神が祝福してくださったものと信じています。今回はカルトに関する講義を行うための出張でしたが、少しでもカルトに関する理解を深める機会を共有できたかなと思っております。皆さん、どうもありがとうございます。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「教会は何を伝えるのか?」という深い自問です。教会は神について、福音について語り伝えるところであるという認識を、皆さんはもとより多くの方々が一般に抱くイメージであることは間違いないと思います。
だからこそ、私たちはじっくりと自問したいのです。私たちが教会で、またクリスチャンとして語り、示している態度は、本当に神に、そして福音に基づいているものなのだろうかということを。そのことを考え続ける営みというものを、私は大切にしたいと思ったのです。
旧約聖書・詩編に描かれた歌い手の思いに、私たちは耳と心を傾けることができます。この歌い手は、イスラエルの王ダビデでした。富と権力を手に入れたダビデでしたが、それは彼自身の偉業によるものではありませんでした。そうではなく、彼に力と知恵を与え、王として油注いだ方をほめたたえ、その方のことを語り伝えようと彼は歌ったのです。、
それこそ神であり、ダビデはあなたの名、つまり神のお名前に込められた神の思いや願いを語り伝えようと謳ったのです。神の名とは「私は(あなたと共に)いる」という意味が込められています。私たちを活かしてくださる神が、今日もあなたと共にいる。この神のお名前に込められたその意味を語り伝えようとということなのです。だからこそ、ダビデはそれが自分の手柄によるものであるということは、一切語らなかったのです。
そのことは伝道者パウロも同様でした。私が伝えている福音は人によるものではなく、私に救いの道を与えたイエス・キリストによるものなのだ。だからパウロは決意したのです。私はもはや、イエス・キリスト以外に語ることはやめようと。教養も社会的地位も高かったパウロが、自分に与えらえた知恵を語ろうとも、それは彼の実績では決してなく、神がイエスを通して与えた祝福なのだと。
これらのことから、私たちが受けとめ、生活を通して語ろうとしていることが、何に基づいているのかという自問というものが、とても大切であることをあらためて思わされた次第です。今日、世界中で行われる主の日の礼拝のなかで、福音が福音として、神が神として語られることを心から祈りつつ、私もそれを伝える者として、神の助けをいただきつつ務めに当たりたいと思いました。
皆さんの一日に、神の名に込められた幸いがともにありますように。お祈りします。
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