31/05/2024

2024.5.31(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書45章24節
主に怒りを燃やす者は皆
そのもとに来て恥じ入る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書14章61~62節
そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「私がそれである。あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り天の雲に乗って来るのを見る。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
去る火曜日から昨日木曜日まで、皆さんへローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。月曜夜から発熱があり、しかしどうしてもしなければならない務めのために、解熱剤を服用しながら取り組んでおりましたら、体力がかなり消耗してしまいました。昨日と今日は予定していた外出をすべてキャンセルして、家で体を休めながら過ごしています。黙想も再開できるくらいの気持ちになりましたので、今日から再び皆さんへお届けしたいと思います。楽しみにしてくださっておられた方々へは、まことに申し訳ありませんでした。
 
今日のローズンゲンに指し示されたふたつの聖句を通して、私が注目したいと思ったのは「怒り」という言葉についてです。怒りを燃やす者は皆、そのもとで恥じ入るとあります。ここで注目したいのは「主に」怒りを燃やす者はうんぬんと記されています。つまり、神に怒りを燃やすとあるのですが、私たちにとって神に怒りを燃やすとはどういうことなのだろうか。そのあたりをあらためてわが身に置きながら考えてみたいと思ったのです。
 
私たちは神にストレートな怒りの感情をぶつけることがあります。私も「主よ、どうしてですか」と訴えかけてしまうようなことが、意外にたくさんあることに気付かされます。この世界に痛みというものが存在している以上、このような怒りを神に対して表すということは、決してなくらならないと思いますし、誤解を恐れず申し上げれば、私は神を信頼しているからこそ、神に対して怒りの思いというものを抱くことがあるのだと思います。
 
では、今日の聖句で言っている怒りとは何か。私は自分自身のなかで終始してしまうような、神に向き合えないくらいに、自分自身が「怒りの主人公」になってしまっているときに、今日の聖句で言われているような怒りが指し示されているのではないだろうか。そう思ったのです。神に向き合えない自分自身を主人公とした怒りは、自分自身の正義を最高のものとみなして、それを「神」としてしまっているのではないかと思うのです。
 
それは神に怒りをぶつけることよりも悪質です。神との対話を失わせ、自分自身を神としてしまっているのですから。イエス憎しとの一心で、怒りに任せて裁判をおこなっていた宗教指導者たちがそうでした。イエスをメシアとどうしても認められない人々が、イエスを前にしてその怒りを婉曲的な言葉を用いながら問い続けている。イエスがそうだと答えたとしてもです。彼らの怒りは最高潮に達して、とうとうイエスを十字架につけてしまいました。その怒りゆえにです。
 
そういう怒りに駆られるときに、もはや自分自身の姿というものを見失ってしまうというのが、人間の悲しい性なのだと、私自身自戒を込めながら感じずにはいられません。そうならないように、神に向き合うことの幸いを今日も神の言葉と聖霊の助けからいただいていきたい。そう思ったのでした。どうか、今日の一日もまた、すべてをご存知である神に、自分自身を明け渡すことができますように。自分自身の心が聖霊によって開かれますように。
 
皆さんの一切にも主の助けと祝福がともにありますように。お祈りします。

27/05/2024

2024.5.27(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編60編14節
神によって私たちは力を振るいます。
神が敵を踏みにじってくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章1節
きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日から始まる週日の日々が、皆さんにとって神の守りと祝福をそのたびことに感じることのできるような時となりますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖句ですが、私にはいささか「分かりにくい」ものです。旧約の言葉、新約聖書の言葉それぞれの意味というものが、それはそれで理解できたとしても、なぜ今日のローズンゲンでこの詩編の言葉とローマ書の言葉をつなげたのだろうか。編集者(ヘルンフート兄弟団)の意図というものが今ひとつ読み取れない。そう思ったのです。すでにご存じのことと思いますが、その日の新約聖書の言葉は、くじによって選ばれたその日の旧約聖書の言葉が示すテーマに沿って、編集者が決定します。
 
ローマ書12章における冒頭の言葉は、私たち自身が神へのささげ物として生きるということを勧めています。ここで言及されているのは「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」ということです。どうでしょう。このような筆者パウロの勧めというものに、私なんかはついつい恐れをなしてしまいます。果たして自分自身が神に喜ばれるような、それも聖なる存在なのだろうか。むしろその逆である自分自身を見つけたほうが容易いことを思わされます。
 
この言葉は、いわゆる「私たちの完璧さ」を求めるものなのだろうか。いや、そうではない。パウロはこの言葉の前に「神の憐れみによって」と書いたうえで、私たちが神へ自分自身をささげるということの大切さを勧めています。そう。神の憐れみなければ、私たちは自分自身をささげることなど、もはや困難な業なのだと思えてならないのです。
 
結局、私自身のしていることが、どれだけ神に喜ばれることなのか、自分自身がどれだけ聖なる存在なのかということについては、結局のところ誰も分かりません。外見ばかりつくろえば、そのように人が良し悪しというものを判断することがあっても、神の目にはどう映るか、結局すべてをご存知なのは私たちの神ただお一人であるということです。
 
大切なのは、たとえそのことを実際に成しえなかったにしても、どれだけ神の御前で誠実にかつ謙遜に生きることができるかということだけなのではないか。これに尽きると思うのです。たとえ周囲がそれを評価するようなことがなかったとしても、それで独り善がりになるのではなく、自分自身に改善の余地を作りつつ、神がご自分の憐れみによって、神にとってふさわしいささげ物として自分自身が整えられていくことを、ただただ望む者でありたい。そのように願いたいのです。
 
そういう意味で言えば、本日の旧約聖書の言葉である詩編の一節も、すべてを分かってくださる神が、ご自分の力によって敵を無き者としてくださるということを願う祈りの言葉であることを、私は受け止めたいと思いました。自分自身の心身を神にささげる際に、それが誠実に成されるものであるならば、究極的には他者の評価や視線などは関係ないのだと。ただ神の憐れみによってということを胸に、今日の一日を歩んでいきたいと思わされました。
 
皆さんの主にある守りと祝福をお祈りします。

26/05/2024

2024.5.26(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編10編14節
あなたは苦しみと悩みを御覧になり
御手によって救おうと顧みてくださる。
不幸な人はあなたに身を委ね
あなたはみなしごの助け手となられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書13章12~13節
イエスはその女を見て呼び寄せ、「女よ、あなたは病から解放された」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を崇めた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間の朝を迎えました。これから始まる七日間の旅路が、そしてその先駆けとしての主の日の礼拝・集会のすべてが大きな祝福のもとにありますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示された聖句で、私は旧約聖書・詩編10編にある「あなたはみなしごの助け手となられた」という言葉に注目したいと思いました。あなたとは父なる神のことであり、みなしごとは祈りの詩をささげる者自身のことを指しています。
 
孤独を感じることは、私たちの人生において多少なりともあることです。どんなに素敵な友達に囲まれていたとしても、どんなに恵まれた毎日を過ごしていたとしても、いざひとりになるとなぜか孤独感に襲われてしまう。そんなことはないでしょうか。また痛みや苦しみが続くと、神がおられるならばどうしてこんな苦痛に苛まなければならないのかと。誰にも分かってもらえない痛みゆえに孤独感を思うこともあるでしょう。
 
まるでそんな状況はみなしご、つまり孤児にある状況と何ら変わらないように思うのです。親から捨てられるように周囲から見捨てられたような感覚に、私たちは陥ってしまうのです。誰も私のことなんか分かってくれない。こうして孤独感が増していくばかりなのです。
 
しかし、なおおかかわらず、私たちの神は愚直なまでに私たちにひとつの言葉を通して、希望を与え続けてくださるのです。神を愚直と言うなんてなんて不謹慎なと思われるかもしれません。しかし、神はそうなのです。ひとつの目的のために何でもしてしまう。それが私たちの神なのです。その目的とは、私たち一人ひとりの命を育み、祝福に導くという目的です。
 
確かに孤独を思うことがあるでしょう。孤独から逃れきれない自分自身があることも確かです。しかし、孤独をつくりあげるのは私自身であることも、私たちは決して忘れてはいけない。そんなことを思わされます。今つくりあげている孤独を人のせいにすることもできますし、それが事実であることももちろんあります。しかし、私自身が孤独であるかどうかは、結局のところ、私自身の判断なのだと思います。少なくとも、みなしごである私を見守り、祝福してくださる神がおられるのだということを知る以上は。
 
長い間病で苦しんでいた女性をいやされたイエス。そのイエスによって生きる希望を見い出した女性は、病がただ治ったということ以上に、いつまでも私のことを見守ってくれた神がおられたことに気付かされた。だから女性は神をあがめることができたのでしょう。今日の新約聖書の言葉は、そのことを物語っているような気がしてならないのです。
 
私たちを見守る神がおられる以上、私たちは決して孤独などではない。そのことを胸に、新しい一週間を生きてまいりたいと思います。皆さんの日々にも、そして今日の歩みにも、神が祝福をもってともなってくださいますように。お祈りします。

25/05/2024

2024.5.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編41編5節
主よ、私を憐れみ、魂を癒やしてください。
私はあなたに罪を犯しました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章9~10節
私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって、今の私があるのです。そして、私に与えられた神の恵みは無駄になりませんでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して考えたいと思ったのは「ゆるされる経験」についてです。具体的にはどちらの聖句にも言及されている「」についてです。
 
罪とは、単に悪いことをしたということよりも、その源となる私たちの態度のことを示す言葉です。神との関係性で言えば「神を必要としない態度・独立独歩で人間が歩もうとする態度」のことを指します。世の中、特にこの日本では神を必要としない人々が大勢いると思います。カミの存在はもとより、宗教的なものはことごとく敬遠され、怪しいものに押し込められているという印象を否定できないのです。また、神を利用して自分たちの私腹を肥やそうとする影響があることも、自戒を込めつつ決して否定することはできません。とにかく、神がいなくても人間は幸せに生きていくことができるのだと、神を信じていようがいまいが、私たちのなかには多少なりともそのような思いが存在するような気がしてなりません。
 
しかし、神は私たちひとりひとりに対して、思い直す機会を常に与えてくださっています。罪の悔い改めというと、どうしても自虐的なイメージに終始してしまうきらいがありますが、自虐的なところで終わってしまったら、神が私たちを生かす意味も、究極の救い主としてのイエスを与えてくださったことの意味は、まったくもって「無駄」なものとなってしまうのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、かつてはキリストの迫害者であったものの、その後のキリストとともにある人生を振り返りつつ、その日々は決して無駄なことではなかったと告白する執筆者パウロの思いが込められています。私はこの世の中は、そして教会の世界すらも「ゆるしのない環境」というものに囚われているような気がしてなりません。もちろん、許せないものを無理に許しなければなりませんと強要すれば、それはそれで脅迫になってしまうでしょう。
 
しかし、ゆるされて生きるということを考えるときに、私たちの神は私たちひとりひとりの命をどのような扱われたか、そして、そのためにご自分の言葉を与え、聖霊の助けをもって私たちの命をささえてくださる。これぞ、神が私たちになされたすべてです。そのことを明らかにしてくださったのが、イエス・キリストに他なりません。
 
だから、事柄だけでゆるしというものを考える以前に、そもそもゆるしとはいったい何なのかということを、神が与えてくださった恩寵というものを真ん中に置いて、今日という一日を生きる者でありたいと願います。一週間の最終日であるこの一日も、そのような神が私たちとともにいてくださることに想いを寄せつつ、生きることができますように。皆さんの神にある守りと祝福をお祈りします。
 

2024.5.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章16節
主を捨てることなど、私たちがするはずがありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68節
シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をする時間がありませんでしたので、一日遅れではありますが、5月24日の黙想をしたいと思います。
 
ここのところ、新約聖書の言葉にヨハネによる福音書6章がたびたび用いられていることにお気づきの方もあるかと思います。イエスを求めてともに歩く群衆に対して、イエスは食事の奇跡をお与えになられました。これで群衆は非常に喜び、イエスこそ我らの王になるべきだとイエスを持ち上げようとします。
 
しかし、この後で語られるイエスの言葉を聞いて、その多くはイエスにつまづきました。命を支える食事こそ、私の肉であり私の血であるとイエスは言ったのです。この話に、群衆の多くは気味悪さを覚え、こんなひどい話を聞いていられようかとその場から去ってしまいました。相手がイエスでも、人の感情は自分自身に逆らうことはできません。自分自身のうちに沸き起こる感情に忠実な人々は、イエスが語られた言葉の真意や本質というものを理解しようとしませんでした。
 
私たちも神に対する信仰心を働かせたとしても、だからと言ってまったくつまづかないわけではありません。聖書の言葉につまづき、目に見える人々につまづき、教会のシステムにつまづきを覚えて、やがて信仰から離れてしまうことは決して珍しいことではありません。もちろん、そのようなことを改善する余地というものは大いにあるでしょう。しかし、それを差っ引いても、私たちの感情がどうしても勝ってしまうからこそ、あらゆる齟齬というものが生じるのだと私は思います。
 
イエスのもとから群衆が去っていくのをご覧になられたイエスは、弟子たちに尋ねます。あなたがたも去ろうとするのかと。それに対する弟子ペトロの言葉が昨日の新約聖書の言葉でした。命の言葉を持っているのはイエスさま、あなたです。ペトロはそのように告白しました。ペトロは自分の感情を常に制御できたわけではありませんでした。時には激しい感情に自分自身の身を任せるままにして、それがトラブルへと発展したことが多々ありました。
 
しかし、ペトロはそういう感情を抱えつつも、あくまで神が与える言葉に自分自身を合わせながら生きようとしました。その意志というものを、私たちはペトロの姿から自分自身の生き方としたい。そんなことを思わされました。感情に開き直ることなく、だからと言って自分自身の正直な姿に蓋をするのでもなく、神の言葉に生きる態度というものを胸にして、生きる者でありたいと思います。皆さんの主にある守りと祝福をお祈りします。

23/05/2024

2024.5.23(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章1節
闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書2章10~11節
博士たちはその星を見て喜びに溢れた。家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝んだ
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「闇のなかに輝く光」であると私は受け止めました。聖書にはしばしば、私たちの社会や私たち個人の日々を暗闇で表現することがあります。光が投じられない状況のなかで、私たちはもがき苦しんでいる。しかし、神がその闇に一筋の光を投じられることで、私たちはその光に喜びつつ、足元が照らされるがゆえに明日の一歩を踏むことができる。そんなイメージです。
 
星を頼りに長旅を続けた東方の博士たち。よくよく考えてみれば、星を頼りに歩いていたということは、星の見える夜の時間に旅をしていたということになります。昼夜逆転の生活をこの博士はしていたのかなと思ったりします。夜に旅をするというのは、今のように街灯もなにもない時代ですから、もっと不便さを強いられる状況のなかで、暗闇のなかを歩いていたということになるでしょう。
 
しかし、彼らは「さまよい歩く」ことは無かったと思うのです。星を頼りに彼らは歩きました。暗闇のなかでも、彼らの旅を助けるために神はいささかの助けを間違いなく与えていた。はっきりと光に出会うまで、暗闇を感じつつも与えられる助け。この助けこそ旅人である博士たちにはなくてはならない助けであり、慰めであったに違いないのです。
 
私は思いました。必ずしも閃光が輝くような助けはないかもしれない。しかし、目あてにするための光が必ず神が与えてくださるものなのだと。それは私たちの期待するところとは違うかもしれない。しかし、神が与えてくださる一個の星の輝きは、必ず私たちの誰でも分かるような光を見るための序章なのだと。そのことを、私たちがいかに信頼をもって神のなさることに応えることができるだろうか。そんなことを黙想したのです。
 
闇のなかでも、暗闇のなかでも明らかに生きて働いておられる神に守られながら、今日という一日も歩んでまいりたいと願わされました。皆さんの新しい一日に、そのような光の輝きがともにありますように。お祈りします。

22/05/2024

2024.5.22(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編111編9節
主はその民を贖い
契約をとこしえに定めた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章2節
この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

本日のローズンゲンが指し示すふたつの聖句は、私たちすべてに対する神の深い愛情が、ひとりの命、それもご自分にとって最愛の子の命を犠牲にしてでも、余すところなく注がれたのを知ることができる言葉であると言えます。もはやこれ以上の説明はいらない。そういう聖句であると私は受け止めました。
 
今日の新約聖書であるヨハネの手紙の一節は「私たちの罪のため、全世界の罪のため」と、罪というものについて記しています。ここで改めて罪について考えました。神に背中を向けて、さも自分自身が神になったかのように自らを取り扱い、そして振舞う。いかにも神に対する忠実で誠実な信仰者を装いながら、実は神から遠く離れている自分自身に気付かずにいる自分自身というものを、私はどれだけ気付いているのだろうか。そんなことを黙想のなかで思わされました。
 
結局のところ「神を必要としない私」というものを形成することは、それすなわち、神が御子イエスを私たちのために犠牲とさせてでも注ごうとした愛を踏みにじっているということなのだと。だからと言って、自らの内外にある罪ゆえに、極端な自虐主義に押し込めたり、卑屈になる必要は全然ないのだとも思うのです。私たちを活かすために、主は私たちでは決して自己生産できない犠牲の捧げものを、神御自身が愛のうちに与えてくださったのだから、私たちに求められているとすれば、ただただ感謝のうちにその事実を味わい知って、今日の一日を少しでも快活に生きたいという思いをいただくことなのかと思うのです。
 
神を必要としないどころか、自分自身が卑屈にならないために神を必要とする態度。そんな思いをもって、今日の一日を過ごしたいと思います。皆さんの一日に、神による守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

21/05/2024

2024.5.21(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書27章3節
主である私はその番人。
絶えずぶどうに水をやり
畑が荒らされないように
夜も昼も守っている。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章13節
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

本日のローズンゲン、特に新約聖書の言葉はよく知られているものです。日本を代表するひとりである、あるスポーツ選手が病気のためにしばらく戦線から離脱しなければならなかったときに「耐えられないような試練に遭わせることはなさらない」と、今日の聖書の言葉を用いてコメントしました。そのことを希望として、この選手は無事に競技に復活することができました。
 
そんななかで、私は思うのです。私たちはこの言葉をどのように理解し、受け止めようとしているのだろうかということをです。神は耐えられないような試練に遭わせることをなさらないから、ただただ耐え続けなさい。歯を食いしばってでも自分の精神力を強めつつ忍耐しなさいということを、私たちに伝えようとしている聖句なのでしょうか。
 
私はこの聖書の言葉を、その部分を切り取るように読むことによって、ただただ忍耐を強いるような印象を与えようとすることに、いささかの違和感を覚えるのです。こういうことを言うと不信仰と思われるかもしれませんが、私たちは耐えられないときは耐えられないのです。簡単に音を上げてしまうのです。前へ進むことを放棄して、その場で地団駄を踏みながらとどまろうとする。これが人間の偽らざる真実なのではないだろうか。そう思えてならないのです。
 
私たちは、その後に続く「それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」この言葉をどのように受け止めることができるのでしょうか。もちろん忍耐のなかに希望を見い出せるような、何らかのきっかけが与えられることもあるでしょう。だからと言って「逃げてはならない」ということを伝えようとしているかと言えば、そうでもないような気がするのです。「逃れ道」と使徒パウロはつづりました。
 
逃げてもいいんだ!私はそのように受け止めました。逃げることが悪であるかのような印象を私たちは持ちたがります。しかし、その逃げ道をも神が設けられた道であるとすれば、私たちはそういう道を歩むことが大いに許されているのではないだろうか。そう思えてならないのです。
 
その辛い場面から逃げることは、いささかの安心を生むことがあっても、物事が即解決するわけではありません。しかし、逃げることで新たな道というものが与えられることによって、これまで考えもしなかったような解決への道が与えられるかもしれないのです。そう、神の導きによってです。その場を絶対に離れないことによって、私たちの心は荒れ果ててすさんでしまうかもしれません。そんな思いをするくらいならば、新しいステージに立つことは決して悪いことではない。今日のコリント書の言葉は、そういうことを私に教えているのではないか。そう思いたいし、そういう思いをもって神が与えてくださることへの希望を確認していきたいのです。
 
私たちの神は、ぶどう園の番人としてぶどうの実が実るように、外敵から実を守り、丁寧に手入れをして、果実が成長するのを見守ってくださいます。今日のイザヤ書が示すメッセージです。そんな神に守られつつ、今日の一日を過ごすことができますように。皆さんの一日に、神による守りと平安をお祈りします。

20/05/2024

2024.5.20(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書66章1節
主はこう言われる。
天は私の王座、地は私の足台。
あなたがたが私のために建てる家はどこにあるのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章16節
あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

本日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するメッセージ、それは「神殿」であると私は受け止めました。神はどこに住まうのでしょうか。そして、神殿とはあらためていったい何なのでしょうか。そのあたりを黙想したいと思いました。
 
あなたがたが私のために建てる家はどこにあるのか。神である主はこのように私たちに問われます。神殿とは、単に建造物としての存在を指すのではないと私は考えています。今日の新約聖書によれば、私たちの内面にこそ神は住まうのだと使徒パウロは手紙をつづっています。外面をさることながら、内面が整ってこそ建物としての神殿は生きるのだと、今日のふたつの聖句に通して、私たちにメッセージを伝えていると思うのです。
 
私がドイツにいた頃の話です。欧州にはとても美しい教会建築を各所で見ることができます。ぴんと張りつめた空気のなかで、私は祈りをささげることがたびたびありました。そのような建築がある背景には、神の住まう所としてぞんざいなことがあってはならないという、当時の信仰者たちの思いというものがあったに違いないと思います。そして、その考え方は今に至っても人々の心のなかにあると私は思うのです。礼拝をするために、教会堂というものが建築されていく姿の根底には、神の住まう所を整えたいという切なる願いがあるのだと私は思います。
 
ただ、こう思うのです。しばしば目に見える建築物のようなものは、神を礼拝することよりも、知らず知らずのうちに、それを建てようとする人間の力を誇示することを無意識のうちに自らの心に育んではいないだろうかということをです。会堂建築がしばしば教会の争いの種になるのは、そのような人間の誇示から来るのではないかと思えてならないのです。いい建物を建てたからと言って、良い伝道ができるわけではないと私は思っています。
 
大切なのは、私たちの心にこそ神が住まわれる、このことを「内住」としばし言われているわけですが、私たちの中心に神が住まわれることによって、私たちの生き方というものが、神によって整われてこそ、はじめて私たちが集う会堂も、聖霊が満ちあふれる神殿となるのだと強く思いますし、そう願ってやまないのです。
 
そして、それを実現するのは私たちの誇示や努力ではなく「神の霊」によるものであると、パウロは手紙をしたためています。昨日、私たちは聖霊降臨祭を迎えました。その余韻のなかで、神の霊、つまり聖霊が決して概念的なものではなく、観念的なものでもなく、具体的に私たちの日々の生活に働くものであるということを、私たちは決して忘れてはならないのだと思います。
 
どうか、私たちが神を迎えることができますように、そのために聖霊よ、来てくださいと祈りつつ、今日の一日を生きてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、聖霊のよき助けと導きによって、神の言葉を通して示される神の真実が豊かに、ともにありますことをお祈りします。

19/05/2024

2024.5.19(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
アモス書5章24節
公正を水のように
正義を大河のように
尽きることなく流れさせよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章13節
しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲンに示された旧約聖書・アモス書5章の一節は、大変有名な聖句のひとつと言えるでしょう。アメリカにおける公民権運動の旗手となった、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師によるメッセージである "I have a dream" で、このアモス書の聖句を引用しているのはあまりにも有名な話です。
 
公正を水のように/正義を大河のように。神はご自分の「正義と公正」によって、それを大河のように私たちのもとに流れを注いでくださるというのです。この正義と公正という言葉は、旧約聖書においてはしばしばセットとなって登場する語です。正しさ(ヘブライ語でツェダカー)は神の存在そのものにあり、その正しさが執行されるときに、それは公正(ヘブライ語でミシュパート)に満ちあふれたものとなり、私たちのすべてを包含して働くというのです。
 
聖書を通して語られる神のメッセージは、あくまで正しさは神のものであって、私たちのうちから正しさというものを自己生産することは決してできません。私たちが正しく生きるというのであれば、正しい御方である神の義と公正を大河の流れの恩恵に与るように、いただき続けることにおいて、はじめて成立するものなのです。
 
こうして私たちは、自分のうちに注がれる神の義と公正というものを、生きていくために無くてはならないものとして、大切にしたいと思うのです。今日の新約聖書の言葉である、ヨハネによる福音書16章の言葉は、主イエスが弟子たちに対して自分に成り代わって弟子たちを守る「弁護者」の存在について語っている部分です。それをイエスは「真理の霊」という言い方をもって弟子たちに語られており、それこそ、聖霊様そのものであると私たちはのちに訪れる聖霊降臨の出来事を通して、知るに至らされるのです。
 
聖霊様は私たちのうちに大河のごとく注がれます。それは決して私たちが超常的なスーパーマンになるということでは決してありません。あくまで神の正しさが具体的なかたちをもって、私たちの生き方を示す源として働くということなのです。私の正義ではなく神の正義が私たちの日々の生活を支え、私たちを活かしていく。まさに私たちを真理へと導き、神の思い願いというものが、聖霊様のお働きによって明らかにされていくのだと。私たちは、そのことを心から期待し、喜び、それを渇き切った喉をうるおすように、いただいてまいりたいと。これが、今日私が黙想を通して、いただくことのできたメッセージでした。
 
聖霊降臨を心から祝い、聖霊様を与えてくださった神に、心から感謝いたします。ペンテコステおめでとうございます。聖霊降臨の祝福が皆さんとともにありますように。お祈りします。

18/05/2024

2024.5.18(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記3章7節
主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いた。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章15~16
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲンに示された聖句のなかで、新約聖書・ヤコブの手紙に記されたこの言葉は、ヤコブの手紙「らしさ」があふれたものとなっています。神の言葉に聴従し、実践することの大切さについて、あらためて黙想してみたいと思いました。
 
ヤコブの手紙は、500年前の宗教改革以来、プロテスタント教会からは敬遠されてきた歴史がありました。行為を重視することで信仰というものがないがしろにされるからという理由ででした。もちろん、神をないがしろにして自分の振る舞いだけが重視されてしまうような信仰者としての生き方は、張り子の虎のような印象を与えることに違いないと私は思います。
 
ただ、だからといってヤコブの手紙の真価というものを無視して、敬遠するような在り方もまた極端とした言いようがありません。ヤコブの手紙を「藁の書」、つまり役に立たないものであるとみなしたと言われている宗教改革者マルティン・ルターは、行為そのものを否定していたわけではありませんでした。信仰が土台にあってこその行為・実践の大切さというものを説いていたことは、彼の遺された言葉から明らかです。
 
大切なのは、何を土台にしているかということであると私は思います。それが、今日の旧約聖書の言葉である、出エジプト記3章の言葉にあらわれています。ご自分の民が奴隷として虐げられているのを見て、いたたまれなくなった、心を痛めた神は、その民に対してご自分の名を明かされ、宣言だけにとどまらない救出を、ご自分の民イスラエルに対してなされました。口先だけでなく、自分の言葉に忠実に生きた。それが私たちの父なる神が示されたモデルに他なりません。
 
今日のヤコブの手紙の一節に先立って、その2章14節にはこのように記されています。
 
私のきょうだいたち、「私には信仰がある」と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。
 
私たちの生き方すべてに、イエス・キリストが豊かにともない、染み込むように働いたときに、必ずやそれに裏打ちされ、連動された言動をもって、私たちは生きていくことが出来るのだと心から信じつつ、一週間の最終日のときを過ごしてまいりたいと思いました。皆さんにとってのこの一日も、そのような神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

17/05/2024

2024.5.17(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記23章9節
あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章37,38,40
正しい人たちが王に尋ねた。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げげたでしょうか。」王は答えた。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

寄留者」とは何か。今日のローズンゲンとして選ばれた、旧約聖書・出エジプト記の言葉に想いを寄せてみたいと思いました。寄留者とは、定住する場を求めて旅する者、また定住する場を求める途上で、一時的な仮住まいをする人たちのことを指します。
 
そのような寄留者に対して「あなたは抑圧してはならない」と、神はモーセを通して語られました。私はこの言葉を聞いた時に、自分にとって抑圧している相手は果たしているだろうかと思ったのです。抑圧というのはゆがんだ支配を指す時に用いられる言葉であると私は理解しています。上から下に向けて抑えつける。つまり、抑圧というのは私たちの関係性を上下関係で見て、それをとらえた時に起きるものなのだと。
 
もちろん、上下関係のすべてが悪いとは思っていません。親子の関係、上司部下の関係など、上下で計らなければならない関係性があるということも事実ですし、おのずとその時の環境が上下関係を「思わせる」ということも、決して少なくはないと思います。今日の聖句のような、定住しているがゆえに得られるものと、定住していないがゆえに得られるものが明らかに違うときに、上下の関係性「のように」見えることもあると思うのです。
 
だからこそ、このような上下関係というものが築き上げられるうえで、知らず知らずのうちに抑圧・被抑圧の関係性が構築されていないだろうかということに、心を配ることがいかに大切かということを、私は改めて知らされる思いがしています。あなたは抑圧してはならないという言葉に対して、私の言動というものに見つめさせられるのです。
 
あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ」と、神は続けてイスラエルの民に語られました。イスラエルも約束の地を目指す流浪の旅のなかで、寄留者の当事者として歩みましたし、約束の地にたどり着いた後も、その気持ちというものが後々まで継承されるべき歴史んであり、神が助け、支え、ともに歩む幸いという宝物であることを、民たちに思い起こさせる一文なのだと。気持ちとは「いのち」そのものを指すヘブライ語であるネフェシュが用いられています。気持ちとはいのちそのものである。自分に与えられたいのちを込めて、同じいのちが与えられた人のことに、心を配り、心を寄せるのだと、神は私たちを支えつつ、ご自分が私たちに対してなされたように、私たちにそのことを感じ取ってもらいたいと願っているのだと私は受け止めました。
 
のど元過ぎれば熱さ忘れるといったようなことの無いように。その日において生かされていることの感謝を、隣人に対して向けていくことができるように生きる一日でありたいと願います。皆さんの一日に、そのような主なる神の幸いと喜びがゆたかにありますように。お祈りします。

16/05/2024

2024.5.16(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編104編13節
主は高殿から山々を潤す方。
主の業の実りで地は満ち足りる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章12~13節
人々が十分食べたとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と言われた。集めると、人々が大麦のパン五つを食べて、なお余ったパン切れで、十二の籠がいっぱいになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
イエスにすがる大勢の人々をただ追い払わず、その人たちが心もお腹も満腹できるように、食事の世話をする。ここにイエスがいかに食べるということを大切にされたかということをうかがい知ることができます。しかし、そのイエスの心を知った弟子たちは困惑します。
 
時は日も暮れかかった頃でした。一日の労働が終わって、それぞれがひと時の休息を持とうとしています。そんな時にどうやって食事を準備しろというのか。店はもう閉まっている。そんなことよりも、これだけ大勢の人々が食べるパンを買うためには、少なくとも7か月分の月収とされるだけのお金も必要となる。どう考えても無理な話なのに、イエス先生はそんな無理難題を吹っかけてくるとは。。。そんな弟子の声が聞こえてきそうな話です。
 
これが偽らざる私たちの現実です。私たちは自分自身の限界というものをよく知っていますから、その限界を超えることのないように、自覚の有無にかかわらず、自分自身を整えながら生きています。それは生きるために無くてはならないことであると私は思います。私はまだ40代の後半であり、周囲からはまだまだ若いと言われますが、それでも20代の頃のようにとはいかなくなりました。心は張り切ってはいても、身体がついていけないということが随分増えたように思います。踏ん張りがきかなくなりました。
 
だからこそ、自分自身に限界を設けて生きるわけですが、しかし、限界の設定をどのようにしながら生きていくことができるのかということについては、今日の聖書の言葉から聴きとる作業のなかで、「私は無理だったとしても、神にとっては無理じゃないんだ」ということを、もっと大切にしたいと思ったのです。
 
それは無理ですと答えんばかりの弟子たちに対して、イエスはパンと魚の奇跡を起こされました。誰が食べても満ち足りるどころか、パンくずを拾い集めたら12の籠でいっぱいになったと聖書には記されています。子の奇跡も非現実的に思えるかもしれませんが、それが神のなさる御業であることを、私たちは神からのメッセージとして聴き取りたいのです。12とは「全体」を象徴する数字であると言われています。あえて12の籠という表現に、そこにいる群衆のみならず、主イエスにすがる者たちすべてに対して、私たちの限界を超えた満ち足りるさまというものを、惜しみなく差し出してくださる。ここにこそ、福音の魅力というものがある気がしてならないのです。
 
神の高殿から流れ出る清水は山々をうるおす。これこそ神の御業であると詩人は歌いました。私たちにとっては無理かもしれないけれど、神は必ず私たちにとって時と機会を定めて、私たちのためにベストな道を提供してくださるのだ。今日の一日もです。
 
そんな一日を歩み、神がなされる不思議な御業というものを満腹に味わうことができますように。お祈りします。

15/05/2024

2024.5.15(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた5月14日の旧約聖書のことば
エズラ記8章22節
神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。

旧約聖書に応じて選ばれた5月14日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章67節
イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
ひとつお詫びを申し上げなければいけません。昨日のローズンゲン黙想は、本日(5月15日)のローズンゲンに示された聖句に基づくものでした。何名の方からのご指摘があり、気づかされた次第です。ですので、本日の黙想は昨日(5月14日)のローズンゲンに示された聖句の黙想をしたいと思います。
 
上に掲げられたふたつの聖句に共通するテーマは「神を捨てる・神から去る」であると私は受け止めました。つまり、神に背中を向けて、独立独歩の道を歩もうとする私たちの態度について、黙想を深めてみたいと思いました。
 
少し話がずれるかもしれませんが、ある方が昔「クリスチャン3年寿命説」といった内容のことを話題にしたことがありました。教会に通い始め、洗礼を受けた頃の新鮮さが徐々に失われていき、日曜日に自分の用事を優先して次第に教会で過ごすことが無くなっていくうちに、教会から足が遠のいてしまうという話です。
 
教会から離れることそれ自体が、神を捨て、神から去ることと100%直結していると、私は全然思っていません。教会に続けて関わり、礼拝に通うだけの魅力を感じられなくなるようなこともありますし、教会から離れて私と神との関係性だけで生きていったほうが、信仰的な営みを続けることができると考えることもあるという話を伺うこともあります。
 
ただ、こうも思います。どんなにイエスの持つ魅力というものを理解しようと努めても、人間の感情には逆らえない時があるということです。人間の感情が安心感を得るために、信仰という道を選び取るということが私たちにはあります。しかし、どこかのタイミングで私の感情と信仰が相容れないときに、私たちはつまづき、挫折し、反発し、反抗して、その道を歩むことをやめてしまい、歩んだ道から引き返してしまう。これも事実なのだと思うのです。
 
新約聖書・ヨハネによる福音書6章の言葉が選ばれました。イエスの話を聞き続けていた弟子たちのなかには「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。」(ヨハネによる福音書6章60節)と告げて、イエスのもとから離れていった人たちが大勢いたことが記されています。かつてはイエスの言葉に魅了した人たちでしたが、聞いているうちに聞くことに自分の感情が耐えられなくなってしまったのでしょう。それだけ、人は自分の感情とうものに逆らうことはできないのだと思います。
 
そのようななかで、イエスが「あなた方も去ろうとするのか」と、使徒たちに語られました。この言葉は、引き留めという観点から読もうとするならば、人の自由を奪い取るようにも読めてしまう言葉であるかもしれません。しかし、私はこのイエスの言葉にこそ、弟子たちに意思決定や行動の自由を与えつつも、自分の感情と向き合うことの大切さというものを、弟子たちのひとりひとりに問おうとされているのではないか、そのように思ったのです。
 
その時その時に訪れる私の感情に振り回されるがゆえに、何かを捨てたり、歩んできた道というものを放棄するということではなく、じっくりと振り返ることを通して、自分にとって今必要なこととはいったい何であるかという黙想のなかで、神との関わりというものを大切にしていきたい。私は掲げられた聖句を通して、そのようなことを思わされました。自分自身の感情というものを、神の言葉と聖霊の助けによって整えられつt、今日の一日を生きたいと願います。
 
皆さんの新しい一日に、神からの守りと平安が豊かにありますように。お祈りします。

14/05/2024

2024.5.14(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書33章2節
主よ、
朝ごとに私たちの腕となり
苦難の時に私たちの救いとなってください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録7章13,14,16節
この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
彼らは、もはや飢えることも渇くこともない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された新約聖書は、ヨハネの黙示録7章の言葉です。黙示とは「象徴・幻などのしるしを用いて暗黙のうちに終末における神による救済の神秘が示されること」(広辞苑第七版)とああります。
 
この黙示録が書き記された頃は、イエスをキリスト(救い主)」と指示て生きることは、まさに命懸けの出来事でした。時の政治権力であったローマ帝国からの激しい迫害のもとで、自分がクリスチャンであることを保たなければならなったことは、今の私からすれば想像もできないことだと思います。今の日本では、周囲の激しい反対などがあることも一定数あることを認めたうえで、それでもキリストを救い主であることを抱いて生きることは、公に保証されていることを考えると、本当に幸せだとあらためて思わされます。
 
しかし、だからと言って、私たちはヨハネの黙示録が書かれた頃の切迫感や緊迫感というものとは全く関係ない世界の中に生きているのかと言えば、決してそうではないと私は思います。私たちの身近なところで、また、世界中で起きているあらゆる出来事に直接・間接的に触れたときに、目を覆いたくなるほどの、出来るものならば避けて通りたいと思うようなことはいくらでもあるかと思いますし、私たちは「神の国に向かう地上にある旅人」として、終末への旅路というものを、私たちの信仰のなかで歩んでいます。私たちの人生の終末もさることながら、この世の終末をもです。
 
ただし、その終末はいつ私たちのもとにやって来るかは、私たちの誰も知りません。ただ神だけがご存知であって、私たちはそのことが明確に知らないなかにあっても、終末への思いを日々確かめながら、与えられた生の営みをただただ歩んでいくのだと思います。その時に確かめることができるのは、今日の言葉にもありますように、私たちが誰でもキリストの血によって洗われて、白い衣を着せられた者たちであるという深い自覚と感謝の念に他なりません。今は飢え渇きを覚えるかもしれないけれど、キリストが私たちを洗ってくださったがゆえに、私たちは飢え渇きからも解放されるときが必ずやって来るのだという希望に、私たちは自分の足取りをまた一歩、進めることができるのだという希望によって、今日という一日もまた生きていくことができるのだと。
 
今朝も新しい一日がやって来ました。朝ごとにと、預言者イザヤは告げました。今日も私たちの腕となってくださる神である主ヤハウェが、私たちの苦しみに語りかけ、アプローチしてくださり、私たちの生きる励みとなり救いとなってくださる。今日の旧約聖書が語るメッセージです。このメッセージに支えられつつ、私たちも神に望みを託して生きることができますように。皆さんの一切に、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

13/05/2024

2024.5.13(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章16節
あなたの泣く声を
目の涙を抑えなさい。
あなたの労苦には報いがあるからだ――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章22節
あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
私たちの負う苦労に、必ず神は報いを与えてくださり、私たちに喜びを与えられる。私が今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して受け取ったメッセージです。
 
イエスが捕らえられ、十字架につけられた前の晩、イエスは弟子たちに語られました。「あなたがたにも、今は苦しみがある」と。イエスの弟子であるがために、イエスとの別離によって感じる苦しみ、イエスを敵視する者たちが与えようとする苦しみ、彼らのなかで処理し、解決することのできない様々な苦しみ。イエスが弟子たちに対して、「あなたがたにも、今は苦しみがある」と言われたのも、イエスが弟子たちの心中というものを察知し、理解していたからこその言葉であると思うのです。実は、最大の苦しみを今受けようとしていたのは、他ならぬイエス本人であるにもかかわらずです。
 
イエスは、自分が苦しくないということなど、まったくありませんでした。イエスはこの後、血の汗がしたたるほの苦痛に満ちた祈りを神に向けられました。父なる神に苦しみを取り除いてくださいと願い出るほどでした。そのような限界を超えるような苦しみをイエスは負われるだけでなく、弟子たちが負うことになるだろう苦しみをも自分自身のものとして受け入れようとしている。「あなたがたにも、今は苦しみがある」という言葉には、そのようなイエスのありったけの思いが込められているのではないかと思えてならないのです。
 
弟子たちの負う苦しみ、そして私の苦しみをも、やがて消え去る時がやってくる。それは喜びをともなったもの、すべての苦しみが報われるのだよと、イエスは弟子たちに語られました。このイエスの言葉に、弟子たちは一旦はつまづきながらも、復活の喜びに触れ、今や聖霊降臨の喜びに彼らが導かれようとしています。こうやって、弟子たちはあとになって次々と気づかされていくところにこそ、福音の醍醐味というものがあるような気がしてなりません。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者エレミヤによるものです。エレミヤもまた、祖国を追われ、バビロニア帝国という巨大な政治のもとに、自由を失われた時代を生きたひとりでした。しかし、にもかかわらず、エレミヤや民たちが感じた苦痛は必ず報われ、涙をぬぐい去ってくださる神がおられる。こうしてエレミヤは希望のメッセージを神から受け取り、それを民たちを共有することができたし、その希望が現実のものとなったことは、数十年後の歴史、つまりエルサレムへの帰還が物語っているのです。
 
この希望に生きたい。そして与えられた新しい一日を生きていきたいのです。それが、今日私の心に感じることのできた黙想でした。どうか、皆さんの新しい一ち日も、神様からの守りと平安が豊かにありますように。お祈りします。

12/05/2024

2024.5.12(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編66編10節
神よ、あなたは私たちを試み
火で銀を練るように私たちを練った。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書21章17節
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
イエスが復活の命をもって私たちに現れてくださいました。それは、私たちにとって何を意味するのか。復活という言葉をめぐって、私たちはイエスと弟子たちとのあいだでなされた深い交流から考えることができます。
 
イエスは、自分たちのもとから消えてしまったペトロをはじめとする使徒たちの前に現れました。こうして、分断されたかと思った命を交流が再開しました。まさにこの交流こそ、復活の出来事の醍醐味と言えるものでした。
 
イエスはペトロに尋ねます。私を愛しているかと。十字架に架けられる前に、ペトロは一蓮托生、どこまでもイエスに付いていくことを宣言します。しかし、舌の根も乾かぬうちに、彼はイエスのもとから逃げてしまいます。もっとも、ペトロが逃げたくらいでイエスが十字架への道が反故にされることはありませんでした。命の清算をされたのち、命を復活させた。それどころか弟子たちとの交流も復活させたのです。そのようななかで、イエスはペトロに尋ねられました。しかも三度もです。
 
ペトロは、さすがにイエスの三度にもわたる問いかけにうんざりします。そして悲しくなります。私のことを信用してくれないのか。もしかしたら、前の裏切りをまだ根に持っているのか。許されていないのか。ペトロはそのような自分自身を責めたがゆえに、悲しくなったのかもしれません。しかし、ペトロは答えます。私があなたを愛していることは、他ならぬあなたがご存知です。そのように告白したのでした。
 
決して卑屈になることなく、ペトロは自分の本心を打ち明けました。悲しいことも愛していることも。そこにペトロのありのままの告白が、イエスに向けられていた。その真っ正直な告白をイエスは受け止められました。だから、イエスは最も大切なご自分の羊を、ペトロをはじめとする使徒たちに委ねられました。イエスの思いを受け継ぎ受け渡すために、しっかりとつながれた。ここに復活の出来事が完成されていく。そんなイメージがわいてきました。
 
神は火で銀を練るように、私たちを練った。今日の旧約聖書の言葉です。銀は練ることで純度が増して、より美しい純銀に近づいてきます。ペトロの失敗をも練られ続けることで、純度と輝きが、イエスによって増し加えられていく。そこにはイエスのペトロに対する深い信頼がともなっているのだと、私は今日の聖書の言葉を受け止めたいと思いました。
 
一週間の始まりであるこの主の日が祝されますように。皆さんの一切に、神である主の守りと祝福が、ともに豊かにありますように。              

11/05/2024

2024.5.11(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記5章18節
神は傷つけても、また包み
打っても、その手で癒やしてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章36節
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書・ヨブ記にある言葉は非常に「重い」と感じました。
 
ヨブ記5章は、神に反抗する者という名前をもったサタン(いわゆる悪魔)のいたずらにより、義人ヨブに降りかかった災いを憂いた彼の友人たちが、いたわり慰めるためにヨブのもとを訪れた。そして、友人エリファズによって語られたのが、本日の聖書の言葉です。
 
エリファズは、今日の聖書の言葉に先立って「神から懲らしめを受ける人は幸いである。全能者の諭しを退けてはならない。」(17節)と、ヨブに語りかけます。神から懲らしめを受けるほどのことをヨブはしたのだろうか。そう思えずにはいられませんでした。ヨブと言えども罪ある人間でしょう。しかし、このたびの災いはサタンによる挑戦的な仕業によってなされたものに間違いありません。それを最終的に神はお許しになられるわけですが、だからと言って、神の懲らしめという言葉は、友人の言葉としてはあまりにも不適切なのではないか。そう思ったのです。
 
ただ、この後に続くエリファズの言葉は、そんな疑問を抱えつつも、私たちの神がどういう方であるかについて、慰めを与えるものだと感じたのです。傷つけても包み、打っても癒される。つまり、私たちの神は完膚無きまで叩きのめすような方ではないのだと、友人はヨブに語りかけました。この言葉も用い方によっては、大変危険なにおいのするものです。「愛の鞭」というものを通して暴力的なものを正当化したり、「飴と鞭」とを使い分けてゆがんだ支配の渦に巻き込もうとする人たちが、この聖句を根拠にして悪用することは大いに考えられるからです。
 
しかし、そのことに深い注意を払いながら、この聖書の言葉に眼を向けたときに、私たちが何物かによって傷つき、打ちのめされたとしても、私たちの神はそんな私たちを見殺しには決してなさらない。必ず私たちの思いや心に手当てを加えてくださる方に他ならないということを、今日の聖書の言葉から聴きとりたいと思ったのです。
 
すべてのものが神から出て、神によって保たれ、神に向かっていく。今日の新約聖書が伝えるメッセージです。つまり、私たちを手当てするために私たちがそのことを受けようが拒もうが、私たちとともに歩んでくださる方がここにいる。そのことを慰めとし、心の励みとしながら、今日という一日を生きていきたい。そう思わされました。
 
皆さんの一日にも、神の助けと祝福が豊かにありますように。お祈りします。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

10/05/2024

2024.5.10(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記26章9節
私はあなたがたを顧み、多くの子どもを与え、数を増し加えて、あなたがたと契約を立てる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙一4章19節
キリストによって、体全体は成長させられ、愛の内に造り上げられてゆくのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句、特に旧約聖書レビ記の一節は、エジプトから脱出して約束の地にたどり着く途上にあるイスラエルの民に向かって、神が告げられた言葉です。神は「私の掟に従って歩み、戒めを守り行うなら」(レビ記26章3節)という条件のもとに、本日のローズンゲンにあるような祝福を語っておられます。
 
つまり、神がイスラエルの民に与えられた「十戒」をはじめとする数々の掟に示されたご命令に聴き従って歩むならば、私はあなた方に対して、民を増し加えて祝福するための契約を与えるというのです。この神の言葉を、私はどのように受け止めることができるだろうか。そんなことを黙想させられます。
 
私は教会の牧師ですので、このような神の言葉を聞くと、民を増し加える=教会に集められる人たちが増し加えられるという発想をついつい抱いてしまいます。教会に集まる方々が信仰共同体・礼拝共同体・食卓共同体として充実した信仰生活を歩めるよう、神が祝福してくださるためには、神の言葉に聴き、そして従うことの大切さというものを、教会全体の大黒柱にしたい。そんな思いにさせられるのです。
 
しかし、一方でこうも思うのです。神の祝福を受けるために、自分自身がしていることそのものが、本当に神が望んでおられることなのだろうかと。つまり、神の言葉に聴き従うという営みを具体化するなかで、神の望んでおられることを真摯に受け止めるというより、目に見える成長、つまり数的な成長のためだけに執着し、そのために躍起になって行動してはないだろうかと。組織拡張のためにあくせく働いてはいないだろうかと。
 
ちなみに「あくせく」とは、「心が狭く小さな事にこだわること。また、休む間もなくせかせかと仕事などすること。」(広辞苑第七版)とあります。つまり、組織を拡張するためには、過剰な管理体制を整え、ゆがんだ支配構造というものを構築するために、無用な掟や戒めやルールなどを、狭い心をもって微細なことにこだわりながらあれやこれやと働くことをも意味するのだと、あらためて思わされた次第です。
 
だからこそ、神がなにをもって私たちを祝福しているのかという本質を、私はじっくりと聴き続け、問い続けていきたいと思ったのでした。こういう営みのなかで、神が私たちを祝福してくださることの幸いというものを、是非味わいたいと思ったのです。   
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロがエフェソにある教会の人々に向けてつづった手紙の一節です。教会をキリストのからだになぞらえながら、その成長について言及しているのですが、この教会が単一の教会を指しているのか、世界的な教会を指しているのか。私は両方だと思っているのですが、いずれにせよ、このキリストのからだを成長させるのはキリスト御自身であり、キリストが私たちに示してくださった「愛」によってそうなるのだということが手紙に記しています。
 
つまり、愛、愛と教会で言うけれど、その愛はどんな愛なのかということを、私たちはじきくりと探求していくことが、実に大切な営みなのだと私は思います。愛という言葉を通して、それが神が示された愛ではなく、自分好みの愛のかたちにならないために。結果として自己愛的な愛を追求することの無いように自戒を込めつつです。
 
そんな思いを抱きながら、神が与える祝福という幸い、キリストが示してくださるご自分の愛について、じっくりと黙想しながら歩み、味わうことのできる一日でありますように。神が私たちすべてにそのことの意味を教えてくださる時でありますように祈ります。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

09/05/2024

2024.5.9(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エズラ記6章22節
主は彼らに喜びを与えられた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章16節
いつも喜んでいなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「喜び」です。特に、新約聖書・テサロニケの信徒への手紙の一節は、大変有名な聖句として知られるものです。
 
今朝、私は4時半に目覚めたのですが、左眼の奥がじんじんと痛みます。あ、来たなと私は思いました。実は私は40年近い頭痛持ちで、昔ほど頻繁ではなくなりましたが、頭痛が始まると、ひどい時でそれが数日間続きます。大体は薬を飲んで休めば良くなりますが、何せ頭痛の時ははっきりと言って苦痛です。物事の冷静な判断はもとより、感情を保つことも時には難しくなります。ましてや「喜んでいなさい」という聖句を見たときに、喜んでなんかいられるか!と思ったりするのです。
 
結局、薬を飲んでツボ押しなどをしながら痛みが治まるのをじっと待つしかありません。薬が効いたのか眠りに就くことができて、再び目覚めたのが7時。まだ眼の奥が痛むものの、ずいぶん楽になってきました。そうなると、痛みが長引かずに済みそうだとホッとさせられます。
 
さて、第一テサロニケ書に書かれた「いつも喜んでいなさい」という言葉は、どういう所から起きる喜びのことを言っているのだろうか。私はそこに注目したいと思いました。 辛い時にもその思いに蓋をして喜びを示しなさいという意味で語られているのであれば、それはあまりにも乱暴な聖書の読み方ですし、自分自身の姿を偽ることにもなるでしょう。
 
そうなりますと、喜びというものは四六時中喜んでいなければならないということでは決してなく、私たちに喜びを感じさせ、喜びに気付けるように「いつも」働いてくださっている方がおられるという所に基づけるからこそ、私たちはいつでも喜ぶことが出来るのだという意味での「いつも喜んでいなさい」なのではないかと思ったのです。
 
この手紙を書いたパウロは、後に続く18節の部分で「これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」と綴っています。私たちがどんなに喜べないような状況と現実があったとしても、たとえ私が頭痛のなかにあっても、最終的には喜びを感じ取ることが出来るように、いつも私たちのために働いておらえるイエス・キリストと、そのキリストヲ通して、そのことを望んでおられる神がおられるのだ。このことが分かるだけでも、孤立無援のなかで痛み苦しむよりは、一服の清涼剤になるのかもしれません。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エズラ記の一節です。長年にわたり、バビロニア帝国の捕虜の身にあった都エルサレムの民たちが祖国への帰還を許され、無事に帰ることが出来たときに、除酵祭、つまり主が災いから過ぎ越させてくださったことを祝う過ぎ越しの祭りが行われたときに、彼らの心に喜びを与えられたのは、民たちのためにいつも働いておられた神である主ヤハウェでした。多くの苦しみを経たからこそ、与えられる喜びも特別だったでしょうし、民たちが感じた喜びもひとしおのものだったのでしょう。
 
いつも喜んでいなさいという聖書の言葉を、ゆがめることなく、無理することなく受け入れたいと思わされた今日の黙想でした。皆さんの一日にも、喜びの神がともなってくださいますように。お祈りします。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

08/05/2024

2024.5.8(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編40編4節
(主は)私の口に新しい歌を
我らの神への賛美を授けてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章23節
あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された新約聖書・エフェソの信徒への手紙4章の言葉に注目してみたいと思います。
 
この手紙を書いた使徒パウロは「心の霊において」あなたがたはあらたにされなさいとしたためています。この「心の霊」とは聞き慣れない表現だと思ったのです。従来の聖書ですと「心の底」とか「心の深み」と訳されていました。こちらのほうが分かりやすい印象を与えます。しかし、新しい聖書であえて「心の霊」としたのは、原語にプネウマという言葉が使われているからです。まさに「」と一般的に訳されている言葉です。
 
私たちの感情はどこから来るのか。そんなことを思います。もちろん心から来るのですが、そもそも心とは何なのだろうか。さらにそんなこと思わされます。聖書において、人間が神によって創造された記録に触れるときに、神は「命の息」を土でかたちづくった人形に吹き入れられたことが分かります。霊という言葉は、息という言葉としても表現できるものです。私たちにとって息、つまり呼吸することが生きるために絶対不可欠な営みであるように、私たちの心もまた呼吸し、常に新しい空気を体内に取り込むことが大切なのだと。そういう意味で「心の霊」という表現は、とても適切な言葉なのだと考えさせられました。
 
そのような呼吸する営みのなかで、私たちは心のうちにあるさまざまな感情や認識というものをも吸ったり吐いたりする。だからこそ、新鮮な空気を吸うことによって、体内の凝り固まっているものを吐き出すことができるという呼吸の原理に従いつつ、私たちは心の奥深くにある霊を、フレッシュな状態に保つことが神の助けによって可能とさせられるのだと思わされたのでした。それは、心の霊に神が与えてくださった聖霊が注ぎ込まれることで、私たちの心の霊が神と結び合わされて、どんな時にあっても神の霊によって私の心も新たにされて、新しい歌を、神を賛美する営みへと、私たちを神が促し、導いてくださるのだと受け止めたいと思いました。
 
呼吸するように聖霊の助けをいただくことで生まれる新しい一日が、大いに祝福されますように。お祈りします。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

07/05/2024

2024.5.7(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編50編2~3節
この上なく麗しいシオンから
神は光を放たれる。
我らの神は来られ
黙ってはおられない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書12章32節
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉のなかで、新約聖書・マルコによる福音書12章に描かれているエピソードは、イエスと律法学者とのあいだで交わされた会話の一節です。
 
聖書に親しんでおられる方ならば「律法学者」と聞けば、何となく良いイメージは起きてこないのではないでしょうか。常にイエスをやり込めようと思い巡らして挑戦的にイエスへ迫るものの、イエスの言葉や態度によって逆にやり込められてしまう。そしてイエスにうらみを募らせ続ける。そんな印象です。私も律法学者と聞くと、そんなイメージを抱いてしまいます。
 
しかし、ここで登場する律法学者はそのような固定観念を覆させるものがあります。イエスに対して律法学者は尋ねます。あらゆる戒め(律法)のなかでどれが一番重要であるかと。イエスは答えます。ただおひと方である神を徹底的に愛すること、そして自分自身を大切にするように隣人を愛することと。このイエスの応答に対して、律法学者が答えたのが今日のローズンゲンに示された新約聖書の言葉です。
 
この律法学者が私たちのイメージにあるような律法学者と違うところは、神が何者であるかということを中心として物事をとらえ、そして考えているというところにあると私は思います。そこにはイエス対して己の正義を振りかざすべく願望を果たし、自己主張だけに終始する姿はありません。真摯な律法の学者らしく、イエスの言葉にフラットな視点で同意し、神を神としてあがめている思いを、私たちは律法学者の言葉からうかがい知ることができます。
 
だからこそ、律法学者の言葉に対して、イエスはこの律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。(34節)と言われました。神の国、つまり神が天地にもたらすご自身の価値観がこの場にあふれました。神御自身がイエスと律法学者、そしてその会話を聞いていたすべての人たちのあいだで、神を神とする。神の価値観が第一に立ったからです。
 
そのことを踏まえて、もっとも大切な戒めとしての「神を愛し、隣人を愛する」ということを考える際に、私たちにとって愛するという行為は、神を中心としたところにあって初めて成り立つものであることが分かります。私たちは神を除外して愛を育むことも可能でしょう。しかし、それは聖書で言うところの愛ではありません。一時的な、簡単に壊れやすくもろい愛に過ぎません。私たち人間は、この「愛らしきもの」を真実の愛ととらえてしまうがゆえに、その愛が壊れゆく姿に接しては苦痛を感じるのかもしれません。
 
だからこそ、神が私たちに与えてくださる愛とは何かについて、聖書の言葉から丹念に耳と心を傾けつつ、自分自身が望む愛のかたちと比較しながら点検する必要があるのだと私は思いました。その時に大切なのは、私は神の思いを第一にしているだろうかという問いの一点に尽きるのだと思います。
 
神が私たちの心に光を放たれるときに、私たちの姿を明らかにしてくだいます。その姿に逃げることなく、己と向き合い、神を見つめることができますように。皆さんの一日に、神の守りと平安をお祈りします。

06/05/2024

2024.5.6(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編27編5節
災いの日に、主は私を仮庵に隠し
幕屋の隠れ場にかくまってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章3節
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日はそれぞれの持ち場で、主の日をお過ごしになられたかと思います。外は夏を思わせる暑さと快晴の一日。教会のなかにいるのがもったいないと思えるような清々しい陽気で、ゴールデンウィーク終盤のひと時だったのではないかと思います。私の持ち場である仙台宮城野教会でも朝夕の礼拝を、来会者の皆さんといただくことができ、本当に感謝な一日でした。どうぞ、今日の一日もまた、神様の祝福がともに、豊かにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された旧約聖書・詩編27編の一節ですが、この詩を歌ったダビデ王は、どのような思いをもって「災いの日」という言葉をもって、自分の思いを表現したのだろうか。そんなことを黙想してみたいと思いました。
 
私たちにとって災いとは何か。禍(わざわい)という言葉でも表現できるわけですが、国語辞典を見ますと『〔鬼神のなす業(わざ)、「はい(わい)」とはそのさまを表す〕傷害・疾病・天変地異・難儀などをこうむること。悪いできごと。不幸なできごと』(広辞苑第七版)とあります。おそらく私たちが想像する災いのイメージそのものなのではないかと思います。
 
そのなかでもとても興味深いのは、わざわいが「鬼神の業」に由来する言葉であるということです。そこに宗教的な意味合いをもった人々が、わざわいという言葉をつくり出したということなんだと、あらためて気づかされました。神に反抗し、神がもたらす良いものを阻害し、人々に神の放つ光をさえぎろうとする悪魔の働きこそ、災いの根源なのだとも思わされるのです。
 
ただ、聖書を読みますと、神御自身も災いを引き起こされる方であることが各所に記されています。私たちは、神が引き起こす災いと、悪魔が引き起こす災いを混同してはいないだろうか。そんなことをあらためて思わされました。どういうことでしょうか。
 
神の人間に対する第一の目的は、災いを人間に降りかからせることではなく、あくまで人間に幸福を与えることです。旧約聖書の時代に数々の災いを与えた神の怒りは、イエス・キリストひとりの命の犠牲もって相殺されました。まさに「災い転じて福となす」ということを、私たちの神は私たちのためになしてくださったのでした。
 
だから、私たちは神を信じるにあって、神の怒りや災いというものに過剰な恐怖心を抱いてそうする必要は全くありません。恐怖ではなく、かしこまりうやまうという畏敬の気持ちをもって、神をおそれることができるのです。それを、神の怒りや呪いというものを強調して人々にアプローチをしようとする動きがあるならば、それは神の与える良いものを阻害しようとする悪魔の働きであり、本当の災いなのかもしれません。悪魔はこうして、絶妙に論点をすり替えながら、人間を神から引き離そうとしているのだと思うのです。
 
だからこそ、今日のダビデの祈りしかり、今日の新約聖書の言葉にもあるように、私たちを悪しき者から守ってくださる主なる神に、自分自身を託したい。そのように願わされました。私たちの生活をご自分の言葉と助けによって導かれる主が、今日も私たちの生活を良いものをもって導いてくださいますように。

05/05/2024

2024.5.5(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編42編2節
鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように
神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章5節
私どもの信仰を増してください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。この最初の日である今日が、皆さんにとって素敵なスタートとなりますように。そして、世界中で行わわれる主の日の祝祭、その礼拝や集まりの一切に、神様の豊かな祝福がともにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちにとって「信仰」とは何だろうかということを考えるうえで、とても大切なことを私たちに伝えている。私はそのように感じ、また受け止めたいと思いました。
 
信仰というと、私たちから神に向かう行為「のみ」に集中されてしまう。私はそのような傾向に危惧というものを抱いています。そのような信仰のとらえ方になりますと、どうしても私たちの鍛錬であるとか功徳の結果が信仰である言ったように、人間の行動が信仰のすべてという風に、この言葉を理解しようとしてしまうのです。
 
しかし、そうではありません。信仰とは神がなしてくださったすべてのこと、ことに救い主イエス・キリストが私たちのために存在し、実証してくださったすべてが信仰の根源なのであって、その信仰を私たちがいただいて、初めて私たちが信仰というものをとらえることができるのだと。だからこそ、イエスの弟子たちはイエスに対して、今日の聖句にもあるように「私どもの信仰を増してください」と願うことができたです。信仰とは何もない所から自力で獲得するものではなく、主の御業というものをいただくことによって、はじめて成り立つのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は詩編42編の言葉でした。私たちは「あえぎ求める」のです。あえぐ(喘ぐ)という言葉を国語辞典で調べますと「せわしく呼吸する、荒い息づかいをする、転じて困難な状況で苦しむ」とあります。あえぎながら、私たちは神を求めることが大いに許されています。それは究極の弱音ですが、この弱音こそ神と向き合うときにさらけ出されるものなのだと私は受け止めたいのです。
 
弱音を吐いたっていいじゃないか。吐けば吐くほど、神を求めることができるのだから。そして、神は私たちに、イエスの実像というものを感じさせてくださるよう全身全霊をもって働いてくださるのだと。私たちがこうしてイエスの実体と実証をもって信仰をいただくことができたときに、私たちは弱音を吐いた分の祝福があることを、希望として今日という一日を生きていくことが、大いに許されているのです。

04/05/2024

2024.5.4(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章26節
あなたがたは豊かに食べて満ち足り
あなたがたの神、主の名をほめたたえる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書6章41~42節
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「食べて満ち足り/食べて満腹した」という言葉です。ある意味、聖書全体を通して語られる中心的なメッセージのひとつに「食べる」というキーワードがあるように私は思います。
 
私たち人間が神によって造られたとき、神が与えた命令のひとつに、食べることに関するタブーがあったことは、皆さんもご存知の通りかと思います。「あの実だけは食べてはならない」というものでした。してはならない行動が、あるものを食べるというものだったのです。いかに、私たちが持つあらゆる行動のなかでも、食べるということが中心的なものであるかと言うことが分かります。
 
出エジプトにおけるイスラエルの民が発した嘆きも、飲食に関することでした。水が飲みたい、あの食べ物を腹いっぱいに食べたい。マナでは物足りないと言った具合にです。飲食というものが、私たちの生活をいかに中心的に支えているかということが分かります。食べることひとつで、神に従えるか否かというところにまでかかってくる。本当にそう思わされます。
 
そのなかで、イエスは食べることはすなわち命に通じることを人々に知らせました。今日の聖句に示されているような食事の奇跡を起こされたり、今度はイエスご自身をパンになぞらえて、弟子たちとともに晩餐の食卓を囲んだ最後の夜。常に食事をともに囲んで、弟子たちとの交わりを楽しまれたことを考えれば、イエスという方が、食べるということを通して人々との交流というものを大切にされたかということがよく分かります。
 
私は、飲食ということを語る際に、食べること・飲むことというのが、以上に述べたように、人を喜ばせもすればその逆もある出来事であるということに、もっと敏感でありたいといつも思わされています。食べるという極めて生理的欲求に基づいた行為によって、それは腹を満たすだけの「えさ」になりもすれば、神からの恵みに満ちた「食べ物」」にもなる。ということです。
 
つまり、私が思うに食べるということが、今日の聖句にあるような満ち足りる喜びへと導かれるとするならば、神が今日も私を生かしてくださるために、食べるという出来事を与えてくださるのだという思いを、心のどこかにしっかりと抱いていたい。そう思わされたのです。
 
私事、ここ2週間あまり風邪をひいてしまったなかで、その半分は嗅覚がいつものように無く、食べるということが本当につまらなく感じてしまっていました。しかし、だからと言って食べないわけにもいかず、つまらないと思いながらも、栄養をしっかり摂ることで、回復につながっていくのを日々感じることができました。今朝は9割9分嗅覚が戻った感じがして、あらためて感謝の気持ちにあふれました。
 
皆さんの命を支えてくださる神が、今日も食べるということを通して、私たちに満ち足りる経験を与えてくださいますように。お祈りします。

03/05/2024

2024.5.3(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記19章14節
耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章36節
あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されている旧約聖書・レビ記19章14節の言葉に、今日は黙想を深めてみたいと思いました。
 
この聖句には「耳の聞こえない者、目の見えない者」とあります。何らかの障がいを抱えている方々に対して、どのように私たちは接することが大切なのだろうかということについて述べられています。
 
私たちは耳が聞こえないからと言って、その人の前で暴言を吐いたり、目が見えないからと言って、あえて歩きにくくさせるような行動を起こすことはしないでしょう。しかし、いわゆる「障がい」と言うことを考えた時に、実は私たちはいろいろな差しさわりを抱えながら生きているひとりなのだという認識を、自分自身のこととして真剣に考える必要があるのではないかと、私は思ったりしています。
 
耳が聞こえない、目が見えないというのは、私たちにとってはとても分かりやすいのです。だから、そのような差しさわりを抱えた方々が、より困らない生活を営むことができるように、手を差し伸べたり親切を示したりするでしょう。
 
しかし、私たちが認識しづらい障がいというものもあるのだと私は思います。かねてから、私たちは自分自身の生活を難しくさせている障がいに「トラウマ」というものがあると感じ続けています。心的外傷という日本語があてられていますが、まさにその通りで、心に大きな傷を得られた場合、それが適切に治療されることがなければ、傷を抱えたまま生きなければならない。聴覚・視覚的障害と同じく、トラウマはれっきとした障がいなのだと私は思います。
 
ただ、あらゆるトラウマから来るそのような外傷、障がいというものは、なかなか周囲から理解されにくいものです。わがまま、自分勝手、常識をわきまえていない、社会や集団を乱す。そんな言葉で片づけられてしまう向きがあります。そしてトラウマを負った当人は、ますます生きにくさを感じて、社会からどんどん乖離してしまう。そんなことを思わされます。
 
もちろん、トラウマは適切に治療される必要があると思います。完全に治癒することが無かったとしても、トラウマをトラウマとして向き合うことのできる自分自身が発見できるだけでも、とても良いことなのだと思います。そして、こうも思うのです。私たちは目に見えにくく、そして分かりにくいトラウマという障がいに対して、自分なりの基準で評定して、結果としてレビ記にあるような呪いの言葉を吐いたり、つまづくものをあえて置いて、つまづかせたりはしてはいないだろうかと。。。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによる私たちへの勧めの言葉です。父なる神が慈しみを示したように、慈しみ深い者でありなさいというイエスの言葉です。慈しみとは親切のともなった愛であると言うことを先日も申し上げました。その親切は甘やかしのようなものとは一線を画すものであると私は思います。だからと言って甘やかしてはいけないと張り切った結果、障害物をあえて置くようなことも違うのではないだろうかと思うのです。
 
私は今日あ、トラウマということを踏まえて聖句から考えてみたのですが、神がイエスを通して言われた慈しみという言葉に、心を寄せて黙想し、実践する者でありたいと願わされました。トラウマから解放されるものこそ、神が私たちに示され、私たちもそうでありなさいと示された慈しみそのものなのだと。
 
今日も神様が皆さんの一日を豊かに祝福してくださいますように。お祈りします。

02/05/2024

2024.5.2(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編81編14節
もし、わが民が私に聞き従うならば

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章23節
あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句。特に旧約聖書の言葉である詩編81編の言葉は、なにやら尻切れトンボのような印象を私なんかもってしまいました。これは81編14節の前半部分に記されている言葉なのですが、その後にはこのような言葉が続いています。
 
わが民はわが声に聞き従わず
           イスラエルは私を求めなかった。
           私は彼らをそのかたくなな心に任せ
           彼らは思いのままに歩んだ。
           もし、わが民が私に聞き従い
           わが道をイスラエルが歩むならば
           たちまちその敵を屈服させ
           彼らを苦しめる者に向かって手を上げよう。(81編12~15節)
 
この詩編は、神が「私」として、ご自分の民に語りかけておられるようなかたちで歌われています。神の民が自分の思うままに振舞うことにって、神に背を向けて神から離れていく姿が描かれています。
 
しかし、神はここで「私は彼らをそのかたくなな心に任せ」たとあります。私はこのひと言に深い黙想を得ることが出来たのですが、私たちの神は、私に聴き従いなさいと言われつつも、私たちに対して首根っこをつかまえて、操縦するようなことはなさらない御方であることが分かります。あくまで、私たちの心に判断と決断を任せられたと、私は受け止めました。
 
結局のところ、神の言葉に聴き従うか否かは、私自身の問題なのです。私が本当にそのようにしたいのか、したくないのか。神がともにおられることを受け入れ、そのために救い主イエスが与えらえれたことを信じ、受け入れ、洗礼を受けた。そのような誰の目からも見えるかたちで起きた「信仰の出来事」が崩され、取り消されることは決してないのですが、それでも、私たちは「神に聴き従うこと」の本質を、神の助けと力をいただきながら、真摯に求めていく営みというものがいかに大切であるか。私たちひとりひとりに求められている課題なのだと、あらためて思わされました。
 
神はそのことを強制されない。しかし、神は私たちに願っておられる。私たちが自分自身の判断と決断でそうなるように、じっと待っていてくださっている。私たちがたとえ、何度もくじいたとしても、神は私たちが神を心から求め、その言葉に聴き従ったときは、全身全霊をもって私たちの命を支えてくださる。ここにこそ、神が私たちの神となってくだったゆえんというものがあるのだと。
 
今日の新約聖書の言葉は、コロサイの教会に集められた信徒たちに語られた勧めと励ましのメッセージです。信仰に踏みとどまってくださいという勧めですが、いくら勧めたとて、最終的にそのことを受け止められるかどうかは、私たちの各人にかかっていることを思わされます。だからと言って勧めなければ良いというわけにもいかない。だからこそ、自分自身の頭で考え、心でとらえ、自分自身で決断をすることができるように、神が見守り続けてくださったように、私も今日のことはをとらえていきたいと願わされました。
 
今日の一日に、神様の守りと平安が豊かにありますように。お祈りします。