05/05/2024

2024.5.5(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編42編2節
鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように
神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章5節
私どもの信仰を増してください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。この最初の日である今日が、皆さんにとって素敵なスタートとなりますように。そして、世界中で行わわれる主の日の祝祭、その礼拝や集まりの一切に、神様の豊かな祝福がともにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちにとって「信仰」とは何だろうかということを考えるうえで、とても大切なことを私たちに伝えている。私はそのように感じ、また受け止めたいと思いました。
 
信仰というと、私たちから神に向かう行為「のみ」に集中されてしまう。私はそのような傾向に危惧というものを抱いています。そのような信仰のとらえ方になりますと、どうしても私たちの鍛錬であるとか功徳の結果が信仰である言ったように、人間の行動が信仰のすべてという風に、この言葉を理解しようとしてしまうのです。
 
しかし、そうではありません。信仰とは神がなしてくださったすべてのこと、ことに救い主イエス・キリストが私たちのために存在し、実証してくださったすべてが信仰の根源なのであって、その信仰を私たちがいただいて、初めて私たちが信仰というものをとらえることができるのだと。だからこそ、イエスの弟子たちはイエスに対して、今日の聖句にもあるように「私どもの信仰を増してください」と願うことができたです。信仰とは何もない所から自力で獲得するものではなく、主の御業というものをいただくことによって、はじめて成り立つのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は詩編42編の言葉でした。私たちは「あえぎ求める」のです。あえぐ(喘ぐ)という言葉を国語辞典で調べますと「せわしく呼吸する、荒い息づかいをする、転じて困難な状況で苦しむ」とあります。あえぎながら、私たちは神を求めることが大いに許されています。それは究極の弱音ですが、この弱音こそ神と向き合うときにさらけ出されるものなのだと私は受け止めたいのです。
 
弱音を吐いたっていいじゃないか。吐けば吐くほど、神を求めることができるのだから。そして、神は私たちに、イエスの実像というものを感じさせてくださるよう全身全霊をもって働いてくださるのだと。私たちがこうしてイエスの実体と実証をもって信仰をいただくことができたときに、私たちは弱音を吐いた分の祝福があることを、希望として今日という一日を生きていくことが、大いに許されているのです。

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