06/05/2024

2024.5.6(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編27編5節
災いの日に、主は私を仮庵に隠し
幕屋の隠れ場にかくまってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章3節
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日はそれぞれの持ち場で、主の日をお過ごしになられたかと思います。外は夏を思わせる暑さと快晴の一日。教会のなかにいるのがもったいないと思えるような清々しい陽気で、ゴールデンウィーク終盤のひと時だったのではないかと思います。私の持ち場である仙台宮城野教会でも朝夕の礼拝を、来会者の皆さんといただくことができ、本当に感謝な一日でした。どうぞ、今日の一日もまた、神様の祝福がともに、豊かにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された旧約聖書・詩編27編の一節ですが、この詩を歌ったダビデ王は、どのような思いをもって「災いの日」という言葉をもって、自分の思いを表現したのだろうか。そんなことを黙想してみたいと思いました。
 
私たちにとって災いとは何か。禍(わざわい)という言葉でも表現できるわけですが、国語辞典を見ますと『〔鬼神のなす業(わざ)、「はい(わい)」とはそのさまを表す〕傷害・疾病・天変地異・難儀などをこうむること。悪いできごと。不幸なできごと』(広辞苑第七版)とあります。おそらく私たちが想像する災いのイメージそのものなのではないかと思います。
 
そのなかでもとても興味深いのは、わざわいが「鬼神の業」に由来する言葉であるということです。そこに宗教的な意味合いをもった人々が、わざわいという言葉をつくり出したということなんだと、あらためて気づかされました。神に反抗し、神がもたらす良いものを阻害し、人々に神の放つ光をさえぎろうとする悪魔の働きこそ、災いの根源なのだとも思わされるのです。
 
ただ、聖書を読みますと、神御自身も災いを引き起こされる方であることが各所に記されています。私たちは、神が引き起こす災いと、悪魔が引き起こす災いを混同してはいないだろうか。そんなことをあらためて思わされました。どういうことでしょうか。
 
神の人間に対する第一の目的は、災いを人間に降りかからせることではなく、あくまで人間に幸福を与えることです。旧約聖書の時代に数々の災いを与えた神の怒りは、イエス・キリストひとりの命の犠牲もって相殺されました。まさに「災い転じて福となす」ということを、私たちの神は私たちのためになしてくださったのでした。
 
だから、私たちは神を信じるにあって、神の怒りや災いというものに過剰な恐怖心を抱いてそうする必要は全くありません。恐怖ではなく、かしこまりうやまうという畏敬の気持ちをもって、神をおそれることができるのです。それを、神の怒りや呪いというものを強調して人々にアプローチをしようとする動きがあるならば、それは神の与える良いものを阻害しようとする悪魔の働きであり、本当の災いなのかもしれません。悪魔はこうして、絶妙に論点をすり替えながら、人間を神から引き離そうとしているのだと思うのです。
 
だからこそ、今日のダビデの祈りしかり、今日の新約聖書の言葉にもあるように、私たちを悪しき者から守ってくださる主なる神に、自分自身を託したい。そのように願わされました。私たちの生活をご自分の言葉と助けによって導かれる主が、今日も私たちの生活を良いものをもって導いてくださいますように。

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