18/05/2024

2024.5.18(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記3章7節
主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いた。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章15~16
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲンに示された聖句のなかで、新約聖書・ヤコブの手紙に記されたこの言葉は、ヤコブの手紙「らしさ」があふれたものとなっています。神の言葉に聴従し、実践することの大切さについて、あらためて黙想してみたいと思いました。
 
ヤコブの手紙は、500年前の宗教改革以来、プロテスタント教会からは敬遠されてきた歴史がありました。行為を重視することで信仰というものがないがしろにされるからという理由ででした。もちろん、神をないがしろにして自分の振る舞いだけが重視されてしまうような信仰者としての生き方は、張り子の虎のような印象を与えることに違いないと私は思います。
 
ただ、だからといってヤコブの手紙の真価というものを無視して、敬遠するような在り方もまた極端とした言いようがありません。ヤコブの手紙を「藁の書」、つまり役に立たないものであるとみなしたと言われている宗教改革者マルティン・ルターは、行為そのものを否定していたわけではありませんでした。信仰が土台にあってこその行為・実践の大切さというものを説いていたことは、彼の遺された言葉から明らかです。
 
大切なのは、何を土台にしているかということであると私は思います。それが、今日の旧約聖書の言葉である、出エジプト記3章の言葉にあらわれています。ご自分の民が奴隷として虐げられているのを見て、いたたまれなくなった、心を痛めた神は、その民に対してご自分の名を明かされ、宣言だけにとどまらない救出を、ご自分の民イスラエルに対してなされました。口先だけでなく、自分の言葉に忠実に生きた。それが私たちの父なる神が示されたモデルに他なりません。
 
今日のヤコブの手紙の一節に先立って、その2章14節にはこのように記されています。
 
私のきょうだいたち、「私には信仰がある」と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。
 
私たちの生き方すべてに、イエス・キリストが豊かにともない、染み込むように働いたときに、必ずやそれに裏打ちされ、連動された言動をもって、私たちは生きていくことが出来るのだと心から信じつつ、一週間の最終日のときを過ごしてまいりたいと思いました。皆さんにとってのこの一日も、そのような神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

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