21/05/2024

2024.5.21(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書27章3節
主である私はその番人。
絶えずぶどうに水をやり
畑が荒らされないように
夜も昼も守っている。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章13節
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。

本日のローズンゲン、特に新約聖書の言葉はよく知られているものです。日本を代表するひとりである、あるスポーツ選手が病気のためにしばらく戦線から離脱しなければならなかったときに「耐えられないような試練に遭わせることはなさらない」と、今日の聖書の言葉を用いてコメントしました。そのことを希望として、この選手は無事に競技に復活することができました。
 
そんななかで、私は思うのです。私たちはこの言葉をどのように理解し、受け止めようとしているのだろうかということをです。神は耐えられないような試練に遭わせることをなさらないから、ただただ耐え続けなさい。歯を食いしばってでも自分の精神力を強めつつ忍耐しなさいということを、私たちに伝えようとしている聖句なのでしょうか。
 
私はこの聖書の言葉を、その部分を切り取るように読むことによって、ただただ忍耐を強いるような印象を与えようとすることに、いささかの違和感を覚えるのです。こういうことを言うと不信仰と思われるかもしれませんが、私たちは耐えられないときは耐えられないのです。簡単に音を上げてしまうのです。前へ進むことを放棄して、その場で地団駄を踏みながらとどまろうとする。これが人間の偽らざる真実なのではないだろうか。そう思えてならないのです。
 
私たちは、その後に続く「それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」この言葉をどのように受け止めることができるのでしょうか。もちろん忍耐のなかに希望を見い出せるような、何らかのきっかけが与えられることもあるでしょう。だからと言って「逃げてはならない」ということを伝えようとしているかと言えば、そうでもないような気がするのです。「逃れ道」と使徒パウロはつづりました。
 
逃げてもいいんだ!私はそのように受け止めました。逃げることが悪であるかのような印象を私たちは持ちたがります。しかし、その逃げ道をも神が設けられた道であるとすれば、私たちはそういう道を歩むことが大いに許されているのではないだろうか。そう思えてならないのです。
 
その辛い場面から逃げることは、いささかの安心を生むことがあっても、物事が即解決するわけではありません。しかし、逃げることで新たな道というものが与えられることによって、これまで考えもしなかったような解決への道が与えられるかもしれないのです。そう、神の導きによってです。その場を絶対に離れないことによって、私たちの心は荒れ果ててすさんでしまうかもしれません。そんな思いをするくらいならば、新しいステージに立つことは決して悪いことではない。今日のコリント書の言葉は、そういうことを私に教えているのではないか。そう思いたいし、そういう思いをもって神が与えてくださることへの希望を確認していきたいのです。
 
私たちの神は、ぶどう園の番人としてぶどうの実が実るように、外敵から実を守り、丁寧に手入れをして、果実が成長するのを見守ってくださいます。今日のイザヤ書が示すメッセージです。そんな神に守られつつ、今日の一日を過ごすことができますように。皆さんの一日に、神による守りと平安をお祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿