04/05/2024

2024.5.4(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章26節
あなたがたは豊かに食べて満ち足り
あなたがたの神、主の名をほめたたえる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書6章41~42節
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「食べて満ち足り/食べて満腹した」という言葉です。ある意味、聖書全体を通して語られる中心的なメッセージのひとつに「食べる」というキーワードがあるように私は思います。
 
私たち人間が神によって造られたとき、神が与えた命令のひとつに、食べることに関するタブーがあったことは、皆さんもご存知の通りかと思います。「あの実だけは食べてはならない」というものでした。してはならない行動が、あるものを食べるというものだったのです。いかに、私たちが持つあらゆる行動のなかでも、食べるということが中心的なものであるかと言うことが分かります。
 
出エジプトにおけるイスラエルの民が発した嘆きも、飲食に関することでした。水が飲みたい、あの食べ物を腹いっぱいに食べたい。マナでは物足りないと言った具合にです。飲食というものが、私たちの生活をいかに中心的に支えているかということが分かります。食べることひとつで、神に従えるか否かというところにまでかかってくる。本当にそう思わされます。
 
そのなかで、イエスは食べることはすなわち命に通じることを人々に知らせました。今日の聖句に示されているような食事の奇跡を起こされたり、今度はイエスご自身をパンになぞらえて、弟子たちとともに晩餐の食卓を囲んだ最後の夜。常に食事をともに囲んで、弟子たちとの交わりを楽しまれたことを考えれば、イエスという方が、食べるということを通して人々との交流というものを大切にされたかということがよく分かります。
 
私は、飲食ということを語る際に、食べること・飲むことというのが、以上に述べたように、人を喜ばせもすればその逆もある出来事であるということに、もっと敏感でありたいといつも思わされています。食べるという極めて生理的欲求に基づいた行為によって、それは腹を満たすだけの「えさ」になりもすれば、神からの恵みに満ちた「食べ物」」にもなる。ということです。
 
つまり、私が思うに食べるということが、今日の聖句にあるような満ち足りる喜びへと導かれるとするならば、神が今日も私を生かしてくださるために、食べるという出来事を与えてくださるのだという思いを、心のどこかにしっかりと抱いていたい。そう思わされたのです。
 
私事、ここ2週間あまり風邪をひいてしまったなかで、その半分は嗅覚がいつものように無く、食べるということが本当につまらなく感じてしまっていました。しかし、だからと言って食べないわけにもいかず、つまらないと思いながらも、栄養をしっかり摂ることで、回復につながっていくのを日々感じることができました。今朝は9割9分嗅覚が戻った感じがして、あらためて感謝の気持ちにあふれました。
 
皆さんの命を支えてくださる神が、今日も食べるということを通して、私たちに満ち足りる経験を与えてくださいますように。お祈りします。

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