16/05/2024

2024.5.16(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編104編13節
主は高殿から山々を潤す方。
主の業の実りで地は満ち足りる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章12~13節
人々が十分食べたとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と言われた。集めると、人々が大麦のパン五つを食べて、なお余ったパン切れで、十二の籠がいっぱいになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
イエスにすがる大勢の人々をただ追い払わず、その人たちが心もお腹も満腹できるように、食事の世話をする。ここにイエスがいかに食べるということを大切にされたかということをうかがい知ることができます。しかし、そのイエスの心を知った弟子たちは困惑します。
 
時は日も暮れかかった頃でした。一日の労働が終わって、それぞれがひと時の休息を持とうとしています。そんな時にどうやって食事を準備しろというのか。店はもう閉まっている。そんなことよりも、これだけ大勢の人々が食べるパンを買うためには、少なくとも7か月分の月収とされるだけのお金も必要となる。どう考えても無理な話なのに、イエス先生はそんな無理難題を吹っかけてくるとは。。。そんな弟子の声が聞こえてきそうな話です。
 
これが偽らざる私たちの現実です。私たちは自分自身の限界というものをよく知っていますから、その限界を超えることのないように、自覚の有無にかかわらず、自分自身を整えながら生きています。それは生きるために無くてはならないことであると私は思います。私はまだ40代の後半であり、周囲からはまだまだ若いと言われますが、それでも20代の頃のようにとはいかなくなりました。心は張り切ってはいても、身体がついていけないということが随分増えたように思います。踏ん張りがきかなくなりました。
 
だからこそ、自分自身に限界を設けて生きるわけですが、しかし、限界の設定をどのようにしながら生きていくことができるのかということについては、今日の聖書の言葉から聴きとる作業のなかで、「私は無理だったとしても、神にとっては無理じゃないんだ」ということを、もっと大切にしたいと思ったのです。
 
それは無理ですと答えんばかりの弟子たちに対して、イエスはパンと魚の奇跡を起こされました。誰が食べても満ち足りるどころか、パンくずを拾い集めたら12の籠でいっぱいになったと聖書には記されています。子の奇跡も非現実的に思えるかもしれませんが、それが神のなさる御業であることを、私たちは神からのメッセージとして聴き取りたいのです。12とは「全体」を象徴する数字であると言われています。あえて12の籠という表現に、そこにいる群衆のみならず、主イエスにすがる者たちすべてに対して、私たちの限界を超えた満ち足りるさまというものを、惜しみなく差し出してくださる。ここにこそ、福音の魅力というものがある気がしてならないのです。
 
神の高殿から流れ出る清水は山々をうるおす。これこそ神の御業であると詩人は歌いました。私たちにとっては無理かもしれないけれど、神は必ず私たちにとって時と機会を定めて、私たちのためにベストな道を提供してくださるのだ。今日の一日もです。
 
そんな一日を歩み、神がなされる不思議な御業というものを満腹に味わうことができますように。お祈りします。

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