25/05/2024

2024.5.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章16節
主を捨てることなど、私たちがするはずがありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68節
シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をする時間がありませんでしたので、一日遅れではありますが、5月24日の黙想をしたいと思います。
 
ここのところ、新約聖書の言葉にヨハネによる福音書6章がたびたび用いられていることにお気づきの方もあるかと思います。イエスを求めてともに歩く群衆に対して、イエスは食事の奇跡をお与えになられました。これで群衆は非常に喜び、イエスこそ我らの王になるべきだとイエスを持ち上げようとします。
 
しかし、この後で語られるイエスの言葉を聞いて、その多くはイエスにつまづきました。命を支える食事こそ、私の肉であり私の血であるとイエスは言ったのです。この話に、群衆の多くは気味悪さを覚え、こんなひどい話を聞いていられようかとその場から去ってしまいました。相手がイエスでも、人の感情は自分自身に逆らうことはできません。自分自身のうちに沸き起こる感情に忠実な人々は、イエスが語られた言葉の真意や本質というものを理解しようとしませんでした。
 
私たちも神に対する信仰心を働かせたとしても、だからと言ってまったくつまづかないわけではありません。聖書の言葉につまづき、目に見える人々につまづき、教会のシステムにつまづきを覚えて、やがて信仰から離れてしまうことは決して珍しいことではありません。もちろん、そのようなことを改善する余地というものは大いにあるでしょう。しかし、それを差っ引いても、私たちの感情がどうしても勝ってしまうからこそ、あらゆる齟齬というものが生じるのだと私は思います。
 
イエスのもとから群衆が去っていくのをご覧になられたイエスは、弟子たちに尋ねます。あなたがたも去ろうとするのかと。それに対する弟子ペトロの言葉が昨日の新約聖書の言葉でした。命の言葉を持っているのはイエスさま、あなたです。ペトロはそのように告白しました。ペトロは自分の感情を常に制御できたわけではありませんでした。時には激しい感情に自分自身の身を任せるままにして、それがトラブルへと発展したことが多々ありました。
 
しかし、ペトロはそういう感情を抱えつつも、あくまで神が与える言葉に自分自身を合わせながら生きようとしました。その意志というものを、私たちはペトロの姿から自分自身の生き方としたい。そんなことを思わされました。感情に開き直ることなく、だからと言って自分自身の正直な姿に蓋をするのでもなく、神の言葉に生きる態度というものを胸にして、生きる者でありたいと思います。皆さんの主にある守りと祝福をお祈りします。

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