ヨブ記5章18節
神は傷つけても、また包み
打っても、その手で癒やしてくださる。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章36節
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書・ヨブ記にある言葉は非常に「重い」と感じました。
ヨブ記5章は、神に反抗する者という名前をもったサタン(いわゆる悪魔)のいたずらにより、義人ヨブに降りかかった災いを憂いた彼の友人たちが、いたわり慰めるためにヨブのもとを訪れた。そして、友人エリファズによって語られたのが、本日の聖書の言葉です。
エリファズは、今日の聖書の言葉に先立って「神から懲らしめを受ける人は幸いである。全能者の諭しを退けてはならない。」(17節)と、ヨブに語りかけます。神から懲らしめを受けるほどのことをヨブはしたのだろうか。そう思えずにはいられませんでした。ヨブと言えども罪ある人間でしょう。しかし、このたびの災いはサタンによる挑戦的な仕業によってなされたものに間違いありません。それを最終的に神はお許しになられるわけですが、だからと言って、神の懲らしめという言葉は、友人の言葉としてはあまりにも不適切なのではないか。そう思ったのです。
ただ、この後に続くエリファズの言葉は、そんな疑問を抱えつつも、私たちの神がどういう方であるかについて、慰めを与えるものだと感じたのです。傷つけても包み、打っても癒される。つまり、私たちの神は完膚無きまで叩きのめすような方ではないのだと、友人はヨブに語りかけました。この言葉も用い方によっては、大変危険なにおいのするものです。「愛の鞭」というものを通して暴力的なものを正当化したり、「飴と鞭」とを使い分けてゆがんだ支配の渦に巻き込もうとする人たちが、この聖句を根拠にして悪用することは大いに考えられるからです。
しかし、そのことに深い注意を払いながら、この聖書の言葉に眼を向けたときに、私たちが何物かによって傷つき、打ちのめされたとしても、私たちの神はそんな私たちを見殺しには決してなさらない。必ず私たちの思いや心に手当てを加えてくださる方に他ならないということを、今日の聖書の言葉から聴きとりたいと思ったのです。
すべてのものが神から出て、神によって保たれ、神に向かっていく。今日の新約聖書が伝えるメッセージです。つまり、私たちを手当てするために私たちがそのことを受けようが拒もうが、私たちとともに歩んでくださる方がここにいる。そのことを慰めとし、心の励みとしながら、今日という一日を生きていきたい。そう思わされました。
皆さんの一日にも、神の助けと祝福が豊かにありますように。お祈りします。
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