14/05/2024

2024.5.14(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書33章2節
主よ、
朝ごとに私たちの腕となり
苦難の時に私たちの救いとなってください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録7章13,14,16節
この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
彼らは、もはや飢えることも渇くこともない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された新約聖書は、ヨハネの黙示録7章の言葉です。黙示とは「象徴・幻などのしるしを用いて暗黙のうちに終末における神による救済の神秘が示されること」(広辞苑第七版)とああります。
 
この黙示録が書き記された頃は、イエスをキリスト(救い主)」と指示て生きることは、まさに命懸けの出来事でした。時の政治権力であったローマ帝国からの激しい迫害のもとで、自分がクリスチャンであることを保たなければならなったことは、今の私からすれば想像もできないことだと思います。今の日本では、周囲の激しい反対などがあることも一定数あることを認めたうえで、それでもキリストを救い主であることを抱いて生きることは、公に保証されていることを考えると、本当に幸せだとあらためて思わされます。
 
しかし、だからと言って、私たちはヨハネの黙示録が書かれた頃の切迫感や緊迫感というものとは全く関係ない世界の中に生きているのかと言えば、決してそうではないと私は思います。私たちの身近なところで、また、世界中で起きているあらゆる出来事に直接・間接的に触れたときに、目を覆いたくなるほどの、出来るものならば避けて通りたいと思うようなことはいくらでもあるかと思いますし、私たちは「神の国に向かう地上にある旅人」として、終末への旅路というものを、私たちの信仰のなかで歩んでいます。私たちの人生の終末もさることながら、この世の終末をもです。
 
ただし、その終末はいつ私たちのもとにやって来るかは、私たちの誰も知りません。ただ神だけがご存知であって、私たちはそのことが明確に知らないなかにあっても、終末への思いを日々確かめながら、与えられた生の営みをただただ歩んでいくのだと思います。その時に確かめることができるのは、今日の言葉にもありますように、私たちが誰でもキリストの血によって洗われて、白い衣を着せられた者たちであるという深い自覚と感謝の念に他なりません。今は飢え渇きを覚えるかもしれないけれど、キリストが私たちを洗ってくださったがゆえに、私たちは飢え渇きからも解放されるときが必ずやって来るのだという希望に、私たちは自分の足取りをまた一歩、進めることができるのだという希望によって、今日という一日もまた生きていくことができるのだと。
 
今朝も新しい一日がやって来ました。朝ごとにと、預言者イザヤは告げました。今日も私たちの腕となってくださる神である主ヤハウェが、私たちの苦しみに語りかけ、アプローチしてくださり、私たちの生きる励みとなり救いとなってくださる。今日の旧約聖書が語るメッセージです。このメッセージに支えられつつ、私たちも神に望みを託して生きることができますように。皆さんの一切に、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

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