03/05/2024

2024.5.3(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記19章14節
耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章36節
あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されている旧約聖書・レビ記19章14節の言葉に、今日は黙想を深めてみたいと思いました。
 
この聖句には「耳の聞こえない者、目の見えない者」とあります。何らかの障がいを抱えている方々に対して、どのように私たちは接することが大切なのだろうかということについて述べられています。
 
私たちは耳が聞こえないからと言って、その人の前で暴言を吐いたり、目が見えないからと言って、あえて歩きにくくさせるような行動を起こすことはしないでしょう。しかし、いわゆる「障がい」と言うことを考えた時に、実は私たちはいろいろな差しさわりを抱えながら生きているひとりなのだという認識を、自分自身のこととして真剣に考える必要があるのではないかと、私は思ったりしています。
 
耳が聞こえない、目が見えないというのは、私たちにとってはとても分かりやすいのです。だから、そのような差しさわりを抱えた方々が、より困らない生活を営むことができるように、手を差し伸べたり親切を示したりするでしょう。
 
しかし、私たちが認識しづらい障がいというものもあるのだと私は思います。かねてから、私たちは自分自身の生活を難しくさせている障がいに「トラウマ」というものがあると感じ続けています。心的外傷という日本語があてられていますが、まさにその通りで、心に大きな傷を得られた場合、それが適切に治療されることがなければ、傷を抱えたまま生きなければならない。聴覚・視覚的障害と同じく、トラウマはれっきとした障がいなのだと私は思います。
 
ただ、あらゆるトラウマから来るそのような外傷、障がいというものは、なかなか周囲から理解されにくいものです。わがまま、自分勝手、常識をわきまえていない、社会や集団を乱す。そんな言葉で片づけられてしまう向きがあります。そしてトラウマを負った当人は、ますます生きにくさを感じて、社会からどんどん乖離してしまう。そんなことを思わされます。
 
もちろん、トラウマは適切に治療される必要があると思います。完全に治癒することが無かったとしても、トラウマをトラウマとして向き合うことのできる自分自身が発見できるだけでも、とても良いことなのだと思います。そして、こうも思うのです。私たちは目に見えにくく、そして分かりにくいトラウマという障がいに対して、自分なりの基準で評定して、結果としてレビ記にあるような呪いの言葉を吐いたり、つまづくものをあえて置いて、つまづかせたりはしてはいないだろうかと。。。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによる私たちへの勧めの言葉です。父なる神が慈しみを示したように、慈しみ深い者でありなさいというイエスの言葉です。慈しみとは親切のともなった愛であると言うことを先日も申し上げました。その親切は甘やかしのようなものとは一線を画すものであると私は思います。だからと言って甘やかしてはいけないと張り切った結果、障害物をあえて置くようなことも違うのではないだろうかと思うのです。
 
私は今日あ、トラウマということを踏まえて聖句から考えてみたのですが、神がイエスを通して言われた慈しみという言葉に、心を寄せて黙想し、実践する者でありたいと願わされました。トラウマから解放されるものこそ、神が私たちに示され、私たちもそうでありなさいと示された慈しみそのものなのだと。
 
今日も神様が皆さんの一日を豊かに祝福してくださいますように。お祈りします。

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