31/05/2024

2024.5.31(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書45章24節
主に怒りを燃やす者は皆
そのもとに来て恥じ入る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書14章61~62節
そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「私がそれである。あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り天の雲に乗って来るのを見る。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
去る火曜日から昨日木曜日まで、皆さんへローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。月曜夜から発熱があり、しかしどうしてもしなければならない務めのために、解熱剤を服用しながら取り組んでおりましたら、体力がかなり消耗してしまいました。昨日と今日は予定していた外出をすべてキャンセルして、家で体を休めながら過ごしています。黙想も再開できるくらいの気持ちになりましたので、今日から再び皆さんへお届けしたいと思います。楽しみにしてくださっておられた方々へは、まことに申し訳ありませんでした。
 
今日のローズンゲンに指し示されたふたつの聖句を通して、私が注目したいと思ったのは「怒り」という言葉についてです。怒りを燃やす者は皆、そのもとで恥じ入るとあります。ここで注目したいのは「主に」怒りを燃やす者はうんぬんと記されています。つまり、神に怒りを燃やすとあるのですが、私たちにとって神に怒りを燃やすとはどういうことなのだろうか。そのあたりをあらためてわが身に置きながら考えてみたいと思ったのです。
 
私たちは神にストレートな怒りの感情をぶつけることがあります。私も「主よ、どうしてですか」と訴えかけてしまうようなことが、意外にたくさんあることに気付かされます。この世界に痛みというものが存在している以上、このような怒りを神に対して表すということは、決してなくらならないと思いますし、誤解を恐れず申し上げれば、私は神を信頼しているからこそ、神に対して怒りの思いというものを抱くことがあるのだと思います。
 
では、今日の聖句で言っている怒りとは何か。私は自分自身のなかで終始してしまうような、神に向き合えないくらいに、自分自身が「怒りの主人公」になってしまっているときに、今日の聖句で言われているような怒りが指し示されているのではないだろうか。そう思ったのです。神に向き合えない自分自身を主人公とした怒りは、自分自身の正義を最高のものとみなして、それを「神」としてしまっているのではないかと思うのです。
 
それは神に怒りをぶつけることよりも悪質です。神との対話を失わせ、自分自身を神としてしまっているのですから。イエス憎しとの一心で、怒りに任せて裁判をおこなっていた宗教指導者たちがそうでした。イエスをメシアとどうしても認められない人々が、イエスを前にしてその怒りを婉曲的な言葉を用いながら問い続けている。イエスがそうだと答えたとしてもです。彼らの怒りは最高潮に達して、とうとうイエスを十字架につけてしまいました。その怒りゆえにです。
 
そういう怒りに駆られるときに、もはや自分自身の姿というものを見失ってしまうというのが、人間の悲しい性なのだと、私自身自戒を込めながら感じずにはいられません。そうならないように、神に向き合うことの幸いを今日も神の言葉と聖霊の助けからいただいていきたい。そう思ったのでした。どうか、今日の一日もまた、すべてをご存知である神に、自分自身を明け渡すことができますように。自分自身の心が聖霊によって開かれますように。
 
皆さんの一切にも主の助けと祝福がともにありますように。お祈りします。

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