27/05/2024

2024.5.27(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編60編14節
神によって私たちは力を振るいます。
神が敵を踏みにじってくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章1節
きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日から始まる週日の日々が、皆さんにとって神の守りと祝福をそのたびことに感じることのできるような時となりますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖句ですが、私にはいささか「分かりにくい」ものです。旧約の言葉、新約聖書の言葉それぞれの意味というものが、それはそれで理解できたとしても、なぜ今日のローズンゲンでこの詩編の言葉とローマ書の言葉をつなげたのだろうか。編集者(ヘルンフート兄弟団)の意図というものが今ひとつ読み取れない。そう思ったのです。すでにご存じのことと思いますが、その日の新約聖書の言葉は、くじによって選ばれたその日の旧約聖書の言葉が示すテーマに沿って、編集者が決定します。
 
ローマ書12章における冒頭の言葉は、私たち自身が神へのささげ物として生きるということを勧めています。ここで言及されているのは「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」ということです。どうでしょう。このような筆者パウロの勧めというものに、私なんかはついつい恐れをなしてしまいます。果たして自分自身が神に喜ばれるような、それも聖なる存在なのだろうか。むしろその逆である自分自身を見つけたほうが容易いことを思わされます。
 
この言葉は、いわゆる「私たちの完璧さ」を求めるものなのだろうか。いや、そうではない。パウロはこの言葉の前に「神の憐れみによって」と書いたうえで、私たちが神へ自分自身をささげるということの大切さを勧めています。そう。神の憐れみなければ、私たちは自分自身をささげることなど、もはや困難な業なのだと思えてならないのです。
 
結局、私自身のしていることが、どれだけ神に喜ばれることなのか、自分自身がどれだけ聖なる存在なのかということについては、結局のところ誰も分かりません。外見ばかりつくろえば、そのように人が良し悪しというものを判断することがあっても、神の目にはどう映るか、結局すべてをご存知なのは私たちの神ただお一人であるということです。
 
大切なのは、たとえそのことを実際に成しえなかったにしても、どれだけ神の御前で誠実にかつ謙遜に生きることができるかということだけなのではないか。これに尽きると思うのです。たとえ周囲がそれを評価するようなことがなかったとしても、それで独り善がりになるのではなく、自分自身に改善の余地を作りつつ、神がご自分の憐れみによって、神にとってふさわしいささげ物として自分自身が整えられていくことを、ただただ望む者でありたい。そのように願いたいのです。
 
そういう意味で言えば、本日の旧約聖書の言葉である詩編の一節も、すべてを分かってくださる神が、ご自分の力によって敵を無き者としてくださるということを願う祈りの言葉であることを、私は受け止めたいと思いました。自分自身の心身を神にささげる際に、それが誠実に成されるものであるならば、究極的には他者の評価や視線などは関係ないのだと。ただ神の憐れみによってということを胸に、今日の一日を歩んでいきたいと思わされました。
 
皆さんの主にある守りと祝福をお祈りします。

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