20/05/2024

2024.5.20(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書66章1節
主はこう言われる。
天は私の王座、地は私の足台。
あなたがたが私のために建てる家はどこにあるのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章16節
あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

本日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するメッセージ、それは「神殿」であると私は受け止めました。神はどこに住まうのでしょうか。そして、神殿とはあらためていったい何なのでしょうか。そのあたりを黙想したいと思いました。
 
あなたがたが私のために建てる家はどこにあるのか。神である主はこのように私たちに問われます。神殿とは、単に建造物としての存在を指すのではないと私は考えています。今日の新約聖書によれば、私たちの内面にこそ神は住まうのだと使徒パウロは手紙をつづっています。外面をさることながら、内面が整ってこそ建物としての神殿は生きるのだと、今日のふたつの聖句に通して、私たちにメッセージを伝えていると思うのです。
 
私がドイツにいた頃の話です。欧州にはとても美しい教会建築を各所で見ることができます。ぴんと張りつめた空気のなかで、私は祈りをささげることがたびたびありました。そのような建築がある背景には、神の住まう所としてぞんざいなことがあってはならないという、当時の信仰者たちの思いというものがあったに違いないと思います。そして、その考え方は今に至っても人々の心のなかにあると私は思うのです。礼拝をするために、教会堂というものが建築されていく姿の根底には、神の住まう所を整えたいという切なる願いがあるのだと私は思います。
 
ただ、こう思うのです。しばしば目に見える建築物のようなものは、神を礼拝することよりも、知らず知らずのうちに、それを建てようとする人間の力を誇示することを無意識のうちに自らの心に育んではいないだろうかということをです。会堂建築がしばしば教会の争いの種になるのは、そのような人間の誇示から来るのではないかと思えてならないのです。いい建物を建てたからと言って、良い伝道ができるわけではないと私は思っています。
 
大切なのは、私たちの心にこそ神が住まわれる、このことを「内住」としばし言われているわけですが、私たちの中心に神が住まわれることによって、私たちの生き方というものが、神によって整われてこそ、はじめて私たちが集う会堂も、聖霊が満ちあふれる神殿となるのだと強く思いますし、そう願ってやまないのです。
 
そして、それを実現するのは私たちの誇示や努力ではなく「神の霊」によるものであると、パウロは手紙をしたためています。昨日、私たちは聖霊降臨祭を迎えました。その余韻のなかで、神の霊、つまり聖霊が決して概念的なものではなく、観念的なものでもなく、具体的に私たちの日々の生活に働くものであるということを、私たちは決して忘れてはならないのだと思います。
 
どうか、私たちが神を迎えることができますように、そのために聖霊よ、来てくださいと祈りつつ、今日の一日を生きてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、聖霊のよき助けと導きによって、神の言葉を通して示される神の真実が豊かに、ともにありますことをお祈りします。

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