15/05/2024

2024.5.15(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた5月14日の旧約聖書のことば
エズラ記8章22節
神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。

旧約聖書に応じて選ばれた5月14日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章67節
イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
ひとつお詫びを申し上げなければいけません。昨日のローズンゲン黙想は、本日(5月15日)のローズンゲンに示された聖句に基づくものでした。何名の方からのご指摘があり、気づかされた次第です。ですので、本日の黙想は昨日(5月14日)のローズンゲンに示された聖句の黙想をしたいと思います。
 
上に掲げられたふたつの聖句に共通するテーマは「神を捨てる・神から去る」であると私は受け止めました。つまり、神に背中を向けて、独立独歩の道を歩もうとする私たちの態度について、黙想を深めてみたいと思いました。
 
少し話がずれるかもしれませんが、ある方が昔「クリスチャン3年寿命説」といった内容のことを話題にしたことがありました。教会に通い始め、洗礼を受けた頃の新鮮さが徐々に失われていき、日曜日に自分の用事を優先して次第に教会で過ごすことが無くなっていくうちに、教会から足が遠のいてしまうという話です。
 
教会から離れることそれ自体が、神を捨て、神から去ることと100%直結していると、私は全然思っていません。教会に続けて関わり、礼拝に通うだけの魅力を感じられなくなるようなこともありますし、教会から離れて私と神との関係性だけで生きていったほうが、信仰的な営みを続けることができると考えることもあるという話を伺うこともあります。
 
ただ、こうも思います。どんなにイエスの持つ魅力というものを理解しようと努めても、人間の感情には逆らえない時があるということです。人間の感情が安心感を得るために、信仰という道を選び取るということが私たちにはあります。しかし、どこかのタイミングで私の感情と信仰が相容れないときに、私たちはつまづき、挫折し、反発し、反抗して、その道を歩むことをやめてしまい、歩んだ道から引き返してしまう。これも事実なのだと思うのです。
 
新約聖書・ヨハネによる福音書6章の言葉が選ばれました。イエスの話を聞き続けていた弟子たちのなかには「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。」(ヨハネによる福音書6章60節)と告げて、イエスのもとから離れていった人たちが大勢いたことが記されています。かつてはイエスの言葉に魅了した人たちでしたが、聞いているうちに聞くことに自分の感情が耐えられなくなってしまったのでしょう。それだけ、人は自分の感情とうものに逆らうことはできないのだと思います。
 
そのようななかで、イエスが「あなた方も去ろうとするのか」と、使徒たちに語られました。この言葉は、引き留めという観点から読もうとするならば、人の自由を奪い取るようにも読めてしまう言葉であるかもしれません。しかし、私はこのイエスの言葉にこそ、弟子たちに意思決定や行動の自由を与えつつも、自分の感情と向き合うことの大切さというものを、弟子たちのひとりひとりに問おうとされているのではないか、そのように思ったのです。
 
その時その時に訪れる私の感情に振り回されるがゆえに、何かを捨てたり、歩んできた道というものを放棄するということではなく、じっくりと振り返ることを通して、自分にとって今必要なこととはいったい何であるかという黙想のなかで、神との関わりというものを大切にしていきたい。私は掲げられた聖句を通して、そのようなことを思わされました。自分自身の感情というものを、神の言葉と聖霊の助けによって整えられつt、今日の一日を生きたいと願います。
 
皆さんの新しい一日に、神からの守りと平安が豊かにありますように。お祈りします。

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