22/05/2024

2024.5.22(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編111編9節
主はその民を贖い
契約をとこしえに定めた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章2節
この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

本日のローズンゲンが指し示すふたつの聖句は、私たちすべてに対する神の深い愛情が、ひとりの命、それもご自分にとって最愛の子の命を犠牲にしてでも、余すところなく注がれたのを知ることができる言葉であると言えます。もはやこれ以上の説明はいらない。そういう聖句であると私は受け止めました。
 
今日の新約聖書であるヨハネの手紙の一節は「私たちの罪のため、全世界の罪のため」と、罪というものについて記しています。ここで改めて罪について考えました。神に背中を向けて、さも自分自身が神になったかのように自らを取り扱い、そして振舞う。いかにも神に対する忠実で誠実な信仰者を装いながら、実は神から遠く離れている自分自身に気付かずにいる自分自身というものを、私はどれだけ気付いているのだろうか。そんなことを黙想のなかで思わされました。
 
結局のところ「神を必要としない私」というものを形成することは、それすなわち、神が御子イエスを私たちのために犠牲とさせてでも注ごうとした愛を踏みにじっているということなのだと。だからと言って、自らの内外にある罪ゆえに、極端な自虐主義に押し込めたり、卑屈になる必要は全然ないのだとも思うのです。私たちを活かすために、主は私たちでは決して自己生産できない犠牲の捧げものを、神御自身が愛のうちに与えてくださったのだから、私たちに求められているとすれば、ただただ感謝のうちにその事実を味わい知って、今日の一日を少しでも快活に生きたいという思いをいただくことなのかと思うのです。
 
神を必要としないどころか、自分自身が卑屈にならないために神を必要とする態度。そんな思いをもって、今日の一日を過ごしたいと思います。皆さんの一日に、神による守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

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