08/08/2022

2022.8.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章5節
その名は
「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一4章16節
私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書9章には、私たちのために与えられた一人のみどりご、男の子について描かれています。そして今日選ばれた5節の言葉に続いて、6節には「その主権は増し、平和には終わりがない」とあります。神が私たちのために与えられた男の子によって、終わりのない平和が訪れる。このイザヤ書にしたためられた預言を、当時受け取ったイスラエルの国民は自分たちの希望とし続けました。
 
それは、後になって、神の助けによって若い夫婦マリアとヨセフとのあいだに生まれた幼子イエスであったことを私たちは知らされます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書3章16節)という聖書の言葉は、まさに今日私たちに与えられた新約聖書・ヨハネの手紙の言葉に引き継がれていることを、私たちは知らされます。平和の君であるイエスを通して、神の愛が私たちのうちに宿るときにこそ、神の望まれる真の平和が、神と私たち、私たちと私たちのあいだをしっかりと結び合わせ、その平和に終わりはないのだと。
 
さて、今日の旧約聖書には、平和の君となる者について「驚くべき指導者」と書かれています。これを別な聖書(新改訳2017)では「不思議な助言者」という言葉で訳されているのが、とても興味深く思えました。随分違った印象を与えると私は感じたのです。指導と助言というものは同じ意味だろうか。そのように感じたのです。
 
その点で、インターネットのあるサイトに掲載されていた説明が、私が思っているイメージを分かりやすく伝えていると思いましたので、引用したいと思います。
 
「助言」という言葉は、「相手の役に立つような(相手の助けになるような)言葉を近い場所から言うことやその言葉の内容」を意味しています。
それに対して、「指導」という言葉は「助言のような相手の役に立つための目的」ではなくて、「教える側の意図・価値観・常識を前提にして教え導く目的」を持っているという違いがあります。
「助言」の表現は「その相手が今困っていることを解決するような役に立つ言葉(助けとなる言葉)」を意味していますが、「指導」というのは「先生・教師・親などが特定の意図に沿って教えて導くこと」を意味している言葉であるという違いを指摘できます。
(https://meaning-difference.com/?p=3914#toc3より引用)
 
このことを踏まえますと、私たちの神というのは、私たちのあらゆる状況をご存知なうえで、ご自分の愛をもって私たちとともに歩みつつ、私たちを助けご自分の言葉を与えられる方という点においては「助言者」なのだと。それも、私たちが予想もしないようなかたちで、神は私たちを平和への道へと導いてくださる。そういう意味でとても不思議で驚くべき神の御業が、私たちに与えられるのだと、私は黙想させられました。
 
私たちに一方的に押し付けるのではなく、愛と和らぎをもって私たちを諭してくださる神の平和。この平和のモデルを私も自分自身の生き方としたい。そのように願わされた朝でした。平和について深く考える日本の8月に、またしても平和にまつわる御言葉が与えられたことに感謝でした。私たちの今日の一日にも、そのような神の平和がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

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