02/08/2022

2022.8.2 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
マラキ書2章10節より
我々には皆、ただひとりの父がいるではないか。
ただひとりの神が我々を創造されたではないか。
なぜ、我々は互いに裏切るのか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章3節
へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
互いに軽蔑しあうのではなく、謙遜な態度をもって互いを尊び合う世界。これが、今日の旧約・新約聖書の言葉から受け取りたいメッセージであると私は受け止めました。
 
では、そのときに言われる「謙遜な態度」とはいったい何を指すのだろうか。謙遜という言葉について黙想を深めてみたいと思いました。今日の新約聖書の言葉にある「へりくだって」という一語についてです。
 
この「へりくだって(謙遜)」という言葉は、新約聖書の言語では「タペイノフロシュネー ταπεινοφροσύνη」という言葉が用いられています。この言葉について事典にはこのようなことが書かれていました。「それは団体生活を損い破壊する私欲と自慢に対立する」。
 
私たちは団体のなかで「生き抜く」ために、いかに競争をして良いものを勝ち取っていくかということに情熱を燃やすのを見たり経験したりすることはないでしょうか。そのために、ただ自分自身を研鑽し続けるならばまだ良いとは思うのですが、私欲ゆえに、自分が他者に勝っていることをアピールするがゆえに、他者を蹴落とすことを主な目的としてしまうならば、それは団体生活を損い、破壊するものを生み出しているかもしれないということなのでしょう。
 
カルト宗教の特徴として「信徒同士を競わせる」という特徴があります。どれだけ忠実にリーダーに従うか。そのために、どれだけ良い業績を挙げ、どれだけ多くの信者を獲得したか、奉仕活動をおこなったか、多くの献金をささげたか。そんなことを競わせれば、活気があるように見えるのは明白です。しかし、そこには今日の聖書の言葉にあるような「謙遜」は、そのかけらすら見出させないというのです。それはリーダーの私利私欲のためであり、その私利私欲の精神は、知らぬ間にメンバーの心にも浸みこんでしまっているというわけです。
 
そういうときに「謙遜」はその本質がすり替えられます。いかにも謙遜なさまを見せて、忠実にリーダーに仕えるその背後には、私利私欲にまみれた謙遜とは程遠い現実がある。だから、互いに軽蔑する思いも生まれるし、そういう思いが根付いている団体には、損失と破壊が生み出されてしまうのだと、私は改めて思わされました。
 
謙遜のモデルは、私たちのために自らの命をささげ、与えられたイエス・キリストに見ると、今日の新約聖書の言葉に続く部分でこの手紙の筆者であるパウロは綴りました。得をするのではなく自ら損失と破壊の道を歩まれたわけですが、しかしそこには豊かさがあふれ出した。私たちが互いに尊び合えるような世界が、本質にしっかりと根ざしたイエスの示された謙遜によって与えられるのだと。
 
昨日に続き「平和」について考えます。平和とは私たちの心が平安とされていること。その起伏のない地平線が広がるところには、高さ低さ、大きさ小ささで物事を判断し、それを評価し、優劣を決定する世界は存在しないのだと。私自身の心のうちにある、謙遜を破壊させるような思いが取り除かれることを願いつつ、今日の御言葉を握りしめたいと思わされた次第です。
 
今日も私たちの生きる世界に、主の平和とキリストが示された謙遜が私たちのうちに満ちあふれますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿