24/08/2022

2022.8.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編45節
私は自由に歩みます。
あなたの諭しを尋ね求めているからです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章37節
私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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昨日に引き続いて、くじによって選ばれた旧約聖書の言葉は、自由について触れられたものです。私は自由に歩みます。詩人はそのように歌いました。自由に歩むとはどういうことなのか。詩人は自由に歩むことの根拠を歌いました。主なる神の諭しを尋ね求めているがゆえに、私は自由に歩むのだと。
 
一見すると、とても矛盾しているようにも聞こえる言葉です。和葦たちは宗教的な教えや諭しを受けるときに、まるで自由が削がれてしまうようにも思えるからです。それなのに、詩編の言葉は神の諭しを求めるがゆえに、私は自由にされている。自由に歩むことができるのだと。
 
ここで言う自由とは、神がそもそも人間を創造されたときに与えられた自由意思と言っても良いでしょう。神は人間を操り人形のように創造はされませんでした。自由意思を与えることによって、人間が自分の頭で考え、自分の意志で言動を決定するようにされました。それは、きわめて自由な方である神が、ご自分に似せて人間を造られたわけですから、人間が自由意思持つものであることは、神の御心であると言えるでしょう。
 
そのことを踏まえて大切なこと。それは、人間がその自由をどのように用いることができるのかという問いに対する私たちの応答です。そのときに私たちが物事に対する判断の基本になるのは、神がどのように私たちに自由を与えられたのかということへのイメージです。そのために、私たちは聖書の言葉を言葉面だけでとらえるのではなく、言葉を通して神が何を願われ、何を私たち人間に期待されておられるのか。それが人間にどのような決断を与えようとしているのか。言葉を通してその本意・本質を尋ね求めるのです。
 
言葉面は時として人を縛ります。言葉は分かりやすく、人を縛りやすいからです。しかし、それだけでは表層的なところでしか、聖書の言葉を受け止めることはできないでしょう。言葉が人を自由にするどころか束縛してしまうという皮肉です。神がご自分の言葉を通して人間を自由にする根拠は、神の心を知ること。それに尽きるのだと私は受け取りたいのです。
 
言葉を通して働く心を知る。私たちは親しい間柄でも自然に行っていることです。神の似姿として私たち人間が創造されているのであれば、究極の知者である神の言葉をどのように受け取ることができるか。そこに御心を知るという私たちの営みを大切にしたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、キリストの愛が私たちを引き離すことができないというテーマのもとに、その愛こそ真理であり、真理は私たちを自由にし、キリストの愛によって神の御心を自分自身の生き方とすることができるのです。
 
イエスの愛にあこがれ、それを私の生き方とすることを望み、神の自由に喜ぶ者でありたい。そんな一日を今日も生きたい。その連鎖がひと日の平和へと結び合わされることを願いつつ、お祈りいたします。

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