12/08/2022

2022.8.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編146編7節
主は虐げられている人のために裁きを行い
飢えた人にパンを与える方。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書8章6節
そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐのは「パン」という言葉です。パンは文字通りのパンですが、私たちの命を支えるために無くてはならない食糧すべてを指す言葉として、私たちはこの言葉を受け止めることができるのだと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉においては、パンは「飢えた」人々に対して、神である主が与えてくださるものであり、新約聖書の物語においては、イエスの言動に魅了され、イエスとともに歩んだ群衆の「空腹」を満たすために、イエスが奇跡を起こされてほんの少しのパンを増やされた出来事が語られています。
 
ここで考えさせられるのは、私にとって「飢える」体験、また「空腹」とはいったいなんなのだろうかということだと受け止めました。そこらへんにつまむものがあるから何かを食べるということではなく、「これを食べなければ命を保つことができない」という、ある種の危機感のようなものを、果たして私は経験することがあるのだろうかと。
 
イエスはしばしば、私たちの命をつなぐのは神の言葉であり、イエスご自身の言葉と行いであることを弟子たちに教えられました。それは具体的に、今私たちに対して聖書に示された言葉の数々を通して明らかにされていることを思います。では、聖書の御言葉に、私たちはそれを食べないと命を保つことができないという、ある種の飢餓感のようなものをもって見ることはあるのだろうか。そんなことを思わされました。
 
私自身の話になり申し訳ありませんが、毎日、朝起きてローズンゲンに示された聖書の言葉に向き合い、思うことを綴ってブログアップする作業は、今の私にとって毎朝の習慣にさせられていますが、時々「毎朝、そのように続けるのは大変ではありませんか?」と聞かれることがあります。
 
正直に申し上げますと、身体が疲れているときなどは、朝6時に起きるのは結構つらいこともあります。今日も6時にアラームをセットしながらも、床から起き上がったのは6時30分でした。しかし、にもかかわらずローズンゲン黙想をもう何年も続けることができているのだろうか。この日課が結果として、聖書の言葉によって生かされているのだという実感を喜ぶことのできる、私にとっては「無くてはならないパン」になっているからなのだと、黙想のなかで改めて気づかされました。
 
私は、この「無くてはならない感」というものを大切にしたいと思いました。もちろん、神の言葉に触れることは、義務や権利という側面からも見ることのできるものであるかもしれません。しかし、それらを越える根拠と理由、つまりそれが「私にとって必要なことだから」という感覚をもって、聖書の言葉に今日も接することができるのを感謝したいと思わされました。それが結果として、私自身の、またまわりを囲む環境の充足につながっていくことに、それをなしてくださる神に、心から期待しつつ。
 
今日の一日に、そのような神が共にいてくださいますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿