23/08/2022

2022.8.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章2節より
私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二3章17節
主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の聖書の言葉は、神が私たちに与えてくださる束縛からの解放と、それゆえに得ることのできる自由について言及されています。では、私たちにとって「解放されること」「自由にされること/その自由を謳歌し、用いること」とは、いったいなんなのかについて黙想を深めてみたいと思いました。
 
聖書の言葉ではありませんが、私が高校生のときに初めて聞き、今でも胸に刻み続けているものがあります。それは「自由には責任がともなう」という言葉です。自由とは自分に与えられた自由もさることながら、私以外のすべての人に与えられた自由をも尊重すること。互いに自由を尊び合うところにこそ、責任ある自由を大切にすることができるのだと。
 
自由だからと言って何をしても良いはずはない。誰もが知っていることです。その自由が何らかの犠牲を生むのであれば、その自由はもはや神が与えたもうた自由とは程遠いものになってしまうのです。私たちは、その自由とは私だけが用いることのできる私有物・所有物なのではなく、私たちが生きるために神が与えてくださった自由であるという視点を大切にすることができる。今日の聖書の言葉が伝えようとしているところです。
 
私は、この視点を大切にしようとするときに、それは「聖書の読み方」に大きく影響するのだと感じています。私たちは聖書の言葉に触れるときに、この言葉の数々をどのようにいただくことができるでしょうか。
 
私は、聖書を通して私たちが知るべきなのは、もちろん自分自身がどうであるべきかということもあるのでしょうが、それよりも大切なのは「関係性に生きる」ことであると思っています。神と私の関係、そして私たち人間のあいだにある関係性です。
 
それで、この関係性が築かれるときに、私の、また私たちの意識のうちに起きるのが「束縛」であると、私は考えることがあります。何かルールをつくり、規制線を張り、禁忌とされることを立て並べて、目に見える仲間意識、同族意識を養うといったことは、私たちの世界では普通に行われていることです。そのときに、聖書の言葉が看板として用いられることがあるのです。
 
しかし、束縛からは自由は絶対に生まれません。自由は束縛の鎖が破られて、解放されて初めて享受されることだからです。私たちが究極的に望み、求め、愛したいのは、神の言葉を通して、神は私たちに束縛という方法を用いなくても味わえる、神が与えられた自由、犠牲を伴う、伴わせることのない自由です。この自由こそ、神と人、人と人との関係性を豊かに築くために、なくてはならないものなのだと、私は心から望みたいし、そういう生き方をしたいのです。
 
束縛から自由を与えた神、死という鎖を解き放ち、私たちに永遠に生きる自由を与えてくださった救い主イエス。この神をいただいた私たちが、今日の新約聖書にもありますように、聖霊の力と助けによって自由を得、それを愛することのできる一日でありますように。心からお祈りいたします。

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