13/08/2022

2022.8.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書50章6節
神の僕の言葉:
打とうとする者には背中を差し出し
ひげを抜こうとする者には頰を差し出した。
辱めと唾から私は顔を隠さなかった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章29節より
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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捨て身になる生き方。
 
詳しいことはここでは控えたいと思いますが、どうして私は今、牧師という仕事をしているのだろうか。そんなことをここ数日考えさせられるいくつかの出来事がありました。
 
もちろん、聖書の言葉に示された福音という良いたよりを伝えるため。神が愛しておられるこの世界、そして人ひとりひとりに神の愛をもってお仕えするため。牧師のつとめとはそういうものだということを、私が信徒のときに教会で、神学校での学びのなかで、牧師という仕事が与えられてからまだまだ少ない経験のなかで、さまざまなかたちで教えられてきました。
 
そんななかで、今日私に与えられた聖書の言葉を通して、改めて実感させられたことがあります。それが「捨て身になる生き方」というものです。私たちのような牧師の働きをする者のことを「献身者」と呼ばれることがあります。献身とは自分の身をささげること。つまり、捨て身になる生き方を自分の生き方とすることだと。
 
誤解を恐れず申し上げれば、伝道に牧会、教育や奉仕という仕事に携わるときに、事務的に、淡々とノルマをこなすように、そのことを行うことだってできると思うのです。しかし、そこに「捨て身となる生き方」はあるのだろうか。たとえそのことができなかったとしても、自分自身の限界というものに打ちのめされながら、捨て身となる生き方を完璧にまで果たされたイエスの生き方というものを、いつも自分自身の心に刻みつけながら生きていくことができるだろうか。いや、そういう生き方を私の生き方としたい。イエスの弟子として。そんなことを強く思わされたのです。
 
神が私たち一人一人の命を守るために、神の下僕が与えられた。どんなに辱めを受けても、神が与えた目的のために、ただ自分を捨てる生き方の道を貫かれたイエス。私たち人間の限界をはるかに超えて働かれる神の小羊であるイエスが、私たちとともにおられる。このことを今日を生きる心の支えとしつつ、明日への備えをしたいと思いました。

皆さんの一日にも、私たちのために捨て身となられるイエスが、ともに、豊かにおられますように。お祈りいたします。

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