25/08/2022

2022.8.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編55編17節
私は神に呼びかける。
主は私を救ってくださる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章10~11節
これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。
あなたがたも祈りによって、私たちに協力してください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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日本聖書神学校の卒業生研修会も終えて小倉を離れ、昨晩より近江八幡に滞在しています。アシュラムセンターでおこなわれる常任運営委員による修道場アシュラムのひとときを過ごします。シメオン黙想の家で朝を迎えました。御言葉に向き合い、黙想するひとときを過ごしてまいりたいと思います。
 
さて私は、今日の聖書の言葉に触れて思ったことがあります。私が神に救われるとは、結局のところどういうことなのかを。
 
ご存知の方も多くおられるように、私はエホバの証人としての信者生活を経て、現在の信仰生活がある者です。エホバの証人も聖書を使い、人間に対する神の救いを説きます。しかし、神に救われるとは裁きの日を逃れることであり、その裁きで滅ぼされないためにエホバ神を信じなさいというアプローチで、救いを知らされたことを思い出します。
 
つまり、自由とか解放とか、神の愛とかイエスがともにおられるとか、癒しとか慰めとか、そういうものが先に来ることがありません。滅びと災いというものを前面に出して、そこに恐れを抱かせて、その災難に遭いたくないのであれば、神に救われなさいということのほうが大切なメッセージにされていたのではないかと思い出します。
 
このような私のヒストリーというものがあって、現在牧師としての職を神から与えられているわけですので、救いに対する思いというものも、そのヒストリーというものが影響しないはずがありません。恐れを呼び起こすような脅し文句を使って、救いをちらつかせるようなやり方は、一時的な効果を生むことはあるかもしれないけれど、そのようなやり方で、本当に神の救いを神の救いとして受け止めることができるのだろうかという疑問を、どうしてもぬぐえないのです。
 
私たちが聖書を読むときに、聖書を通して神の声に耳と心を傾けるときに、そこに聴こうとするときに、神はこの私に何を語りかけているのだろうか。神はどのような思いで私を救おうとしているのだろうか。どのような思いで私を戒め、諭そうとされておられるのか。そのことを、今回のアシュラムの期間中も深めてまいりたいと思わせる、今日の御言葉をいただきました。
 
どうか、今日の一日もそのような神の語り掛けが、皆さんにとっての救いとなりますように。お祈りいたします。

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