19/08/2022

2022.8.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編63編9節
私の魂はあなたに付き従い
あなたの右の手は私を支えてくださいます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章12節より
私は自分が信じてきた方を知っており、私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私が神を信じたから、神は私を守ってくださるのか?それとも、神が私を守ってくださっていることに気づいたから、私は神を信じることができたのか?
 
私たちは信仰というものを考えるときに、今掲げた問いに必ず向き合うことになります。私の生活が豊かにされるのは、私が一生懸命神を信じ、宗教活動を懸命に行った結果だからなのだろうか。最近、カルト宗教問題がクローズアップされるなかで、その問いにたとえ答えがわかっていたとしても、真摯に向き合わなければならないことを思わされるのです。
 
たくさん献金をしたから宗教的に注目されてレベルアップするとか、これだけ宗教活動のノルマを挙げたから徳が高くなるとか、まるで論功行賞のようにその人の「頑張り」が成果に結びつくような信仰であるならば、それは神の業というものがどこかに追いやられ、信仰と言いつつも人間の小手技に矮小化してしまっているのだと、私は感じずにいられません。
 
誤解を恐れず申し上げれば、これは教会の世界においても、しばしば見受けられる「信仰に対するモノの考え方」であると思えるし、実際に経験することがあります。実際に「熱心な宗教活動」というものが、教会の教勢というものをあげたり、活気づくための要素であったりするわけですが、問題なのは、それを人間の成果の結果のようにとらえ、そのことを知らず知らずの間に推進してしまうような空気が醸し出されるということなのです。
 
だからこそ、神が私たちに向かってなぜ、どのように愛してくださり、具体的な言動に発展したのかを、聖書の言葉から丹念に理解しようとする態度こそ、本当に必要なことなのだと思わされるのです。そのことを知れば知るほど浮かび上がってくるのは、私たちの素質や努力などは関係なく、私たちによいものを与え続けてくださろうとする神が私たちとともにおられ、私たちの腕を、命をしっかりとホールドしてくださる方なのだということです。
 
だから、私たちは安心して神にすがることができるのです。これだけ頑張らななければ、神に手を握ってもらえないのだろうか。そんなことはありません。私たちの信仰からくる生活の営み、宗教的な言動というものはすべて、そのような神の守りを受け取ったものの応答としてなされることを、神は期待しておられるということです。そのことに改めて気づかされつつ、今日という一日を歩んでいきたいと願わされました。
 
どうか、努力の良し悪しや多少で物事を計るようなところから解放されて、誰をも祝される神の御腕にすがりつくことのできる自由によって、今日も一日を豊かに味わうことができますように。お祈りいたします。

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