31/08/2022

2022.8.31 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編130編7節
イスラエルよ、主を待ち望め。
主のもとに慈しみがあり
そのもとに豊かな贖いがある。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章8節より
神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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昨日、オンラインで開催されたある「黙想会」へ参加しました。聖書の言葉にただ黙して聴き、それをグループで、また全体で分かち合うというものです。批評し合う会ではなく、お互いに御言葉によって神の声を聴く作業を大切にする会。私が関わっているアシュラムに相通じるものを感じながら、日ごろ伝道牧会の業に励んでおられる全国の牧師たちとの、とても素敵な交わりのひとときをいただきました。
 
そのときに与えらえた聖書の言葉は、新約聖書・ヨハネによる福音書13章1~10節でした。イエスが弟子ペトロの足を洗う、よく知られた「洗足」の聖書箇所です。あらためてじっくりと噛みしめるように、聖書の言葉に聴こうと思いました。泥とほこりにまみれた弟子たち、そしてペトロの足を洗うイエス。最初、ペトロはそれを拒みます。
 
ペトロの心中はさまざまな思いがこもごもとしていたと思うのです。汚い部分を見られたくない恥ずかしさ。一番弟子としての手前、ほかの弟子たちの前で師に足を洗ってもらうなど己のプライドが許さない。とにかくペトロはイエスの奉仕を素直に受けることができません。
 
自分の罪を知っていながらも、心の底から罪を自覚することができず、罪の赦しすら素直に受容することのできない人間の現実こそ、ペトロのそれであるような気がしてなりません。しかし、にもかかわらず、イエスはペトロのどろどろとした現実のなかにためらいなく入り込んで、ただ足を洗い続ける。ここにこそ、イエスが与えてくださった「恵みの出来事」が存在するのだと。

そのとき、ペトロはそのことに気づきませんでした。しかし、イエスの言われる通り、後になってペトロは恵みの大きさを自覚するに至ります。極みの極みまで私たちに慈しみと愛を注いでくださるイエスに、自分自身の心を向けて生きる者でありたい。そんなことを感じとることのできた黙想会のひとときでした。
 
そんなことを思いながらいただいた今日の聖書の言葉です。私たちのうちに恵みを満ち溢れさせてくださる神が、私たちとともにいてくださることに期待し、その御業を待ち望め。そんな御声を今日の聖書の言葉から聴くことができたような気がしています。私事、今身体の痛みがありますから、この痛みからはやく解放されたいという思いのなかに、神が私の心を整えさせてくださり、希望をもって今日の一日を過ごすべく私を導いてくださることこそ恵みのなのだと。
 
神の恵みが、この世に、また私たちの一人ひとりに豊かに臨みますように。お祈りいたします。

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