05/08/2022

2022.8.5 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編18編30節より
わが神によって城壁を飛び越える。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私自身を襲うあらゆる困難、克服することができないと思わせるような出来事、それらを乗り越えることができるのは、なにゆえか。今日選ばれた聖書の言葉から、そんなことを改めて考えさせられます。
 
旧約聖書・詩編18編には、こんな表題があります。
 
指揮者によって、主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。(詩編18編1節)
 
イスラエルの王ダビデもまた、王となるまで、また王となってからも、困難から解放されることは決してありませんでした。自分の命をねらう者の存在をはじめ、さまざまな出来事が彼を悩ませました。災いというものからすべて解放されるときなどというのは、私たちの誰もが生きているあいだは、おそらく無いのだろうなと思うのです。
 
しかし、大切なことはそのような困難や悩みというものは、決して乗り越えられないものではないと、ダビデも自分の詩のなかで歌っていることに注目したいのです。「わが神によって」とダビデは歌います。自分自身の力ではどうにもならないという限界の向こう側に、神がご自分の力をもって、私がこの難局を乗り越えることができるように助けてくださるのだと。事実、ダビデはこうして命ねらう者たちから守られ、人生の日々を歩むことができました。ただただ孤独に、歯を食いしばりながら頑張り過ぎなくても良いということなのだと。
 
しかし、私たちは神の助けによって困難を乗り越えるというときに、決して忘れてならないものがある。それが今日の新約聖書の言葉にもしたためられているわけですが、それはなにか。困難を乗り越える助けとなる神の力とは、その土台に神御自身の「愛」があることを、私たちは忘れてはならないのだと思わせられます。
 
今日の新約聖書には「臆病」という言葉が登場します。私たちは、臆病になると自分自身を防御するために、しばしば攻撃的になることを知っています。攻撃的というといかにも強さの象徴とも思えますが実は逆で、弱さの露呈だったりするわけです。本当の意味での強さとは、強さを誇示しなくても、攻撃的に振舞わなくても、生きていくことができるのだという安心感から来るものなのではないかと感じるのです。
 
そうではなく、神が賜る力は、愛と思慮が込められた聖霊の力であると、新約聖書の言葉につづられています。救い主イエスが人々に示された愛と思慮が、困難を乗り越えるための土台となり、私たち一人ひとりの生き方となるというのです。イエスは、ご自分の弟子をこのような仕方で育てられました。そして、私たちもまたイエスの弟子として、神の愛と思慮によって育ててもらうことができる。今日の聖書の言葉は、そんなことを私に伝えているものだと受け止めました。
 
私のうちにある攻撃したくなる心が、神の愛と思慮によって鎮められるときに、困難に対して臆病になることなく、私もまた愛と和らぎをもってその課題に向き合うことができますようにと祈ります。またそのような連鎖こそ、この世界の平和をつくり出す者として歩む連帯となりますように。ただ、神の愛と思慮による助けによって。アーメン。

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