10/06/2022

2022.6.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言15章1節
柔らかな受け答えは憤りを鎮め
傷つける言葉は怒りをあおる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章26~27節より
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。また、悪魔に隙を与えてはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約・新約聖書の言葉を貫くのは「怒り」であると私は受け止めました。この言葉に、私は特別なチャレンジを与えられている者として、特に黙想を深めてみたいと思いました。
 
私はもともと、怒りの感情を管理し、調整しながら表現することがそんなに上手なほうでありません。怒りの感情を抑えることができず、爆発させてしまうようなことがこれまで幾たびもあり、そのたびごとに後味の悪さというものを経験してきました。
 
最近では、怒りを放出することで「ハラスメント(いやがらせ)」につながることが、社会的にも認められるようになりました。ですから、怒りに対してはとても厳しい目が向けられます。それはとても良いことだと思いますし、私のような牧師という職をいただいている者にとっては、そのあたりのことに細心の注意は払わなくてはとつくづく思わされます。
 
数年前から「アンガーマネジメント」という分野に大きな関心をもって、自分自身へのトレーニングとして怒りの感情と付き合うようにしています。怒りの感情を我慢するのではなく、いかに健全なかたちで自分自身のなかで整理し、それを表現することができるだろうか。試行錯誤の毎日ですが、意識するだけでこうも違うものなのだと思わされることも多くあったりします。
 
そう考えますと、聖書という本もまさにアンガーマネジメントに関する多くの勧めがあることに気づかされます。今日の聖書の言葉はまさにそれであるとも言えるわけですが、今日の言葉を通して改めて気づかされたことがあります。それは、怒ること自体もさることながら、怒りを誘発するような言動にも注意を払うことの大切さについてです。
 
私たちの怒りというものは、これまでの生い立ちのなかで培われてきたがゆえに生じる「痛み」が刺激されることによって、引き起こされることがあります。同じ言葉やおこないをとっても、ある人は怒り、ある人はなんも感じないというのは、まさに痛点というものが人それぞれに違うからとも言えるわけです。
 
だから人間関係というものはロボットのように画一的でなく、とても複雑な構造のうえに成り立っているのであって、それだけに難しいのだなと痛感させられます。人を傷つけるつもりはないのに、結果としてその人の心を傷つけてしまったということはいくらでもあるものです。その逆もあるでしょう。
 
では、どうすればよいのでしょうか。私はこう思わされました。まず、自分自身の痛みがどこにあるのかということに真摯に向き合うこと。それを美辞麗句や美談、記憶の美化で覆い隠さないこと。そして、私の向こう側にいるあの人も、私と同じなんだということへの自覚。神はその人が抱える苦悩をすべてご存知なうえで、その人を生かしてくださっているという事実があること。
 
私が相手に関わることで感じる痛みを我慢する必要はないと思うのです。しかし同時に思うことは、相手も同じことを感じているかもしれないという想像力なのでしょう。そして、すべてをご存知である神が、それぞれに痛みから遠ざけてくださるように働きかけてくださっていることへの信頼。
 
毎夕太陽が沈むように、私たちの怒りもやがては沈むときがやってくる。このことを実現させてくださる神に期待して、無理やり怒りを鎮めずにその感情とうまく付き合うことで、今日の新約聖書の言葉にあるように、怒りの日没というものを経験できるのかもしれません。それが実際の日没後に至り、数年後にいたるとしてもです。
 
怒りを誘わず、引き起こさず、受けることで得る傷に向き合う思いを、今日も神様が与えてくださるように祈りたいと願わされました。そうして私たちのあいだに神の平和が豊かに宿りますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。

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