05/06/2022

2022.6.5 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編73編26節
この身も心も朽ちるが
神はとこしえにわが心の岩、わが受くべき分。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章23~24節より
霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日は聖霊降臨祭、ペンテコステの日曜日を迎えました。毎年思うことですが、クリスマスやイースターに比べてなんとなく祝う盛り上がに欠けてしまうように感じるのはどうしてだろうかと。三大祭と言っている割には、本当に他のふたつの祭りと同様にみなしているだろうか。まことに不遜な気持ちを抱いてしまっている私自身を思わされます。
 
そんなはずはないと、自分自身に言い聞かせながら今年もやってきたペンテコステ。聖霊なる神の存在をもう一度、自分自身のうちに確かめたい。それを「教会の誕生日」という決まりきったフレーズに落とし込んでしまうことがないように、ペンテコステの喜びを味わいたい。そんなことを感じさせられています。
 
牧師のくせにそんなことを言ってもいいの?と問われれば、確かにそんなことを言ってしまって良いはずはないのですが、それが正直な感想だからしょうがない。ただ、それに抗うように思わされるのは、聖霊なる神様が私たちにさまざまなかたちで助けを与え、私たちを守り、神を感じさせてくださるのは、年に一度だけ思うことではなく、毎日感じているということなのだと私は受け止めています。そういう意味で言えば、私にとっては毎日がペンテコステなのだと。
 
だからこそ、ペンテコステという特別な一日をどのように際立たせることができるのだろうかと、思ってしまう自分自身があるのかもしれません。ペンテコステという毎年訪れる日曜日一日だけ聖霊を意識して、ほかの364日に聖霊の恵みというものを忘れてしまうようなことがあっては元も子もない。聖霊こそ、私たちを日々生かす助け主、慰め主なる神なのだと。父なる神と子なるキリストの現代における目に見えるかたちそのものが、聖霊なる神なのだと思わされるのです。
 
霊の初穂という言葉が、今日の新約聖書のなかで語られています。クリスチャンはそれを持っているというのです。この手紙を書いた使徒パウロは、今生きる苦しみのなかで、聖霊の助けをいただいているからこそ、キリストが決して遠いところにいるのではなく、私たちとともにいてくださり、その苦しみを忍耐しながら、希望をもって乗り越えることができるのだと書き綴っています。

初穂と聞くと、聖霊降臨のあの日に聖霊が注がれたその初穂、そこから聖霊の力があふれ出たときに限定されているように聞こえるかもしれません。そうならば、ペンテコステの出来事から2000年もたった今、聖霊の初穂もなにもないのではないか。いや、それは違うのだと。私たちが命の一日を更新するたびに、聖霊は私たちをリセットして、フレッシュな聖霊を注ぎ、それによって目覚め、神とともに新しい一日を生きることができるならば、それはイコール初穂なのではないかと思えてならないのです。そういう意味で、ペンテコステは年に一度の出来事では決してなく、毎日が聖霊降臨の出来事なのだと感じ取りたいのです。
 
夜には疲れ果て、休みたくなる状態に心身が陥ったとしても、私たちの心の慰め主、岩のように力強い神の力が、聖霊によって与えられるならば、私たちは新たな命に支えられて、今日という一日を歩むことができるのだ。そういう一日を今日も歩みたいと願わされます。
 
どうか、私たち一人一人に初穂として注がれる聖霊の助けが、私たちの生活に希望を呼び起こしてくださいますように!お祈りいたします。

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