27/06/2022

2022.6.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章17節より
あなたの同胞は、『主の道は公正ではない』と言っている。しかし、彼らの道こそ公正ではない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章10節
主に喜ばれるものが何かを吟味しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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主なる神の喜びに資するものが何であるかを吟味することの大切さ。今日の新約聖書の言葉を通して、あらためてこの大切さに立たされたいという思いにさせられました。
 
吟味すると日本語に訳されたもともとのギリシア語である「ドキマゾー(δοκιμάζω)」は、吟味するの他に、確かめる・検査する・検討する・試験するなど、さまざまな日本語に訳することができる語です。総じていえば、念入りに確かめることによって、物事の本質を識別し見極めるということが期待されるときに、ドキマゾーという語が用いられています。
 
味にも、舌で感じることのできる甘味・酸味・塩味・苦味・うま味のほか、辛味・渋味や、嗅覚や食感、視覚や記憶などが相まって総合的に味覚というものが構成されるのであれば、「おいしい」とひと言で表現できることも、実に奥が深いものだと思わされます。
 
ですから、神の喜びとは一体なんだろうかと考えるときに、私たちは深い思索と黙想というものが必要であることを思わされます。ただし、その営みはいたずらに複雑なものにすることではありません。シンプルな聖書の言葉のなかにも、奥深い味わいがあるということを自覚することの大切さが、私たちの心や思いのうちに温められていくならば、それはおのずと神の喜びというものを味わうことができるのだ。そのように思うのです。
 
そのことを踏まえれば、今日の旧約聖書の言葉はとても深い思索を与えるものだと受け止めることができます。正しくないと確信してやまないことが、実は正しくないのだというのです。言い換えれば、自分が正しいと断言できることが本当に正しいのだろうか。神が期待されている喜びや正しさというものに勝って自分自身を支配してしまう「自己正義」の危うさというものを黙想しながら、聖書の言葉に向き合っていくことの大切さを感じさせられました。
 
神の言葉という眼鏡を通して、聖霊なる神の助けをいただきながら、じっくりと聖書の言葉を味わいたい。そんなことを願いながら、祈りつつ今日の一日を歩んでまいりたいという黙想が与えられたことを感謝し、喜びがにじみあふれるような世界が今日もありますように。お祈りいたします。

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